KunadonicLiveSpaceSystem

高校の頃に他界した父からは、とにかく褒められまくって育ちました。母は狭量で他人の器を測れず、自分の子供には不安しかありませんでした。

父はとにかくよく褒めました。祖父譲りの大切なカメラや自作のステレオも、惜しげも無く貸し与え、勝手にさせてくれました。当時珍しかったパソコンも。私がインドア傾向で友達が少なかった事を察してか、自分が好きだったからか、そうしたオモチャには不自由しませんでした。カメラを片手に初めて撮影に出かけたのは、近所の多摩動物公園。小学生でした。パソコンはもっぱらゲームをするだけですが、プログラムを改造して無敵にしたり、そんな経験が今の仕事に繋がっているのは言うまでもありません。カメラは一時生業にしていました。ステレオはバンドで楽器を奏でるバックボーンでもありましたね。高価なダイヤモンドのレコード針を折ってしまっても、怒りませんでした。父の自己肯定感は、今思えば計り知れません。絶対無比。圧倒的な知識量、豊富な経験、度量と器量、見てくれも心意気も男の中の男。男惚れした同僚が沢山いたと死後何度も聞かされました。職場でも重用されていた技術者で、葬儀は壮大でした。

私自身の父の影響は絶大でした。そんな父の影を追いかけていた子供時代、とにかく父が大好きでした。他界した折には、ショックで不登校になり、将来への漠然とした夢も希望も、全て崩れ去りました。子供の頃の私には確かに、男性性が認められます。この父の死により私の男性性は瓦解しました。

母は過保護の管理過多。自分の不安を子供に依存しなすりつけるタイプで、習い事をさせるのには熱心でした。母はとにかく自己肯定感が低いです。祖母から、お前は駄目人間だと言われながら育ったような。出来の良い姉妹と常に比べられたから、自ずとそうなったのでしょう。ただ、底意地の強さや我慢強さなどは私にもしっかり受け継がれたようです。

共働きで、母からの愛情には間違いなく飢えていました。よく比較された弟の存在も大きかったでしょう。弟は意外と不出来で、それが逆に愛情の対象となりました。私は孤独に勉学に励むも、それは愛情の対象とはならなかったのです。出来て当たり前。それも私の今の心に大きく影響しているでしょう。

術後の最後の配管、尿カテーテルの除去。浮腫があったことから日数をヌツ程遅らせての除去でした。

手順はまず膀胱の異常の有無を確認するために、管をゴムで縛り尿を止めます。尿は管を流れず膀胱に溜まっていきます。尿意を感じたらゴムを解き排出。その量を計って膀胱に異常がないかを確かめます。通常は300~500ml程度。

たっぷり水分を補給しながら様子を見ます。最初の一時間で1Lのミネラルウォーターを飲み干しました。程無く一度目の尿意。量は600mlでした。続けて順調に700ml、2時間経たない内に3回目で800mlとなりました。ここで膀胱異常なしとなり、ついにカテーテル除去。

4度目の尿意でトイへ。バルーンを縮めてするりとカテーテルは抜けました。ここで初めての放尿(笑) 感覚の違いに笑いが止まりません。素直に嬉しかったです。これでようやく全ての管が外され、自由の身となりました。

この先は、ダイレーションの日々。

手術も無事に済み、日毎に回復しています。ドレーン・点滴・パッキングの順に外れて、ようやく自立でシャワーが浴びられるように。ここまでは、痛みよりも、浮腫との戦いでした。

手術直後から患部がパンパンに浮腫んでしまい、見るもおぞましき状態でしたが、鼠径部をマッサージし、足をなるべく動かす事で徐々に回復。出血も多少ありましたが大事には至らず。輸血はせず人工の代用血漿剤で乗りきりました。

悩ましいのは排便。坐位もままなりませんから差し込み便器(所謂おまる)を使わなければなりません。恥は既に通り越しているのですが苦痛ですね。なので、食事をなるべく汁物にしていました。

結果としては順調な回復。ほぼ予定通りの日数でここまで来ました。残す尿カテーテルだけはトイレトレーニングがあり、最後の山場です。

さて術後の感覚など。

コロナ禍で患者が全くいなかった時期に、ガモン病院では術式のアップデートがされたと一部で噂されています。外見の審美性が明らかに向上したという話です。それに関連するかわかりませんが、相当の激痛を想定していたのに、今のところ苦痛を感じるレベルではありません。鎮痛剤を服用しているものの、軽い違和感程度に押さえられています。これは本当に幸いでしたが、個人差が大きく出る部分です。

気になる膣の深さは? ガモン先生の初診で13cmと告げられました。10cmもあれば充分と思っていたので、ラッキーとしか言い様がありません。睾丸摘出していなかった事もあるでしょう。以前スポーンクリニックも検討していたというのもあります。何れにしても嬉しいです。

手術当日は三名のオペが予定されていて、私の順番は結局最後でした。リカバリまで考えると、これもよかったかもしれません。

感覚ですが、鬼頭の神経が残されていて、それが陰核部分に納められています。機能的にも本来の女性と同じ作りになっています。しかし術後の感覚としては、陰茎の先端部分がまだ残っていて、それが頭で思う位置にないような、そんな変な感覚です。海綿体のほとんどを切除していますから、形状は全く違うものになっているのに、一番敏感だった部分がその存在を普通にアピールしているような。これも時間と共に慣れるのかもしれません。

尿の感覚は、また後日。

12/1の18:00頃からオペとなりました。全身麻酔なので勿論何の記憶もございませんが。

開始前に執刀医ガモン先生とお会いでき、一緒に写真を撮りました。スタッフの皆さんも和やかで、安心して臨めました。

気が付くとリカバリールーム。布団乾燥機のようなブロワーがベッドに設けられ、暖かかったです。スタッフにWhat time? と聞くとMed nightと。Painと伝えたら、痛み止めを点滴から注入してくれました。そのまままた、眠りにつきます。

続いて目が冷めたのは3時くらいでしょうか。5時に病室に戻ると告げられ、ベッドに乗せられたまま戻りました。また軽い眠りに。

7時を回る前に朝食が運ばれてきました。頼んでおいたわかめスープ。

この段階では出血と浮腫が凄く、ガモン先生に診てもらうことに。ガモン先生曰く「大丈夫」。浮腫が退くよう水分を多めに摂り、軽く足を動かして血流やリンパの流れを促しました。

繋がれた管が取れるまでは、ベッドから身動きも出来ません。排泄もままなりませんから、食事は全て汁物にしました。

明日か明後日か、まだ病床に横臥する日々が続きます。

本当に色々ありました。まだ何かありそうですが。前日にしてようやくPCRの検査結果。勿論陰性。このPCRが出来ない事で涙を飲んだあの日は忘れません。

職場も家族も、何とか承諾を得ました。難しいものですね。帰ってからもまだあるかもです。

まあ、無事に帰れるよう祈るばかり。

改めて。いえ、前回の投稿から随分経っているのに?と思われた方は多いでしょうか。実は、タイへの渡航はPCR検査が出来なかったことにより、搭乗拒否されてしまいました。そして今ようやく渡航に漕ぎ着けたという訳です。

彼此半年以上が経過してしまいましたが、その間に緊急事態宣言があり、仕事も休業を余儀なくされてしまいました。第一波、第二波と過ぎる中でようやく渡航可能の兆しが見えてきたのが、9月。タイ政府による特別便の運行が発表され、VISAの取得や入国許可証など大変な手間を要するものの、俄に渡航者の話がTwitterで散見されるようになりました。特別便への搭乗の条件として、観光などは当然認められません。ビジネスや教育関連、政府関連などと連なる中に「医療目的」というものがありました。

SRS(性別適合手術)はタイが世界でもトップレベルの技術と症例数を誇るもので、一大産業でもあります。これを無視できないのは当然ともいえます。

今回の渡航で用意した書類は、驚くほどの数になります。順に挙げていくと、VISA申請には特別便のチケット・日本の病院の英文診断書(押印必須)・タイの病院の診断書と予約紹介状・治療費に見合う銀行残高証明書・日本の身元保証人のサイン入り身分証明書コピーと申請書・パスポートのコピー・AHQ(タイ保健省認定の隔離病院の予約証明)・そしてエントリーシート。VISAの次は入国許可証(COE)で、これもエアチケットにパスポートとVISAのコピー・英文の誓約書・英文診断書・AHQ・COVID-19対応と明記された旅行保険・銀行残高証明といった具合。COEが発行されたら、今度は渡航前72時間以内にPCR検査と英文の陰性証明と合わせて健康証明書を得て、これで渡航当日を迎えます。

まだ今日の段階では、PCRを受けていません。新型コロナに感染しているということはまずないでしょうけど、健康管理は徹底しなければなりません。

この日の特別便でガモン病院に向かう日本人は、私を含めて6名とのこと。まさかの団体様になってしまったようですね。恐らく、年内に済ませたいという気持ちは私と一緒なのでしょう。仲良くできたらいいですね。

さて、戒厳令下の渡航で、現地病院でも14日間の隔離が求められています。入院期間はともかく退院後も外出はできません。残りの1週間で軽く外出できれば? 勿論観光が目的ではありませんし、病院近くのイオンモールに足を運んで何か食事でも…その程度です。退院後は体を少しでも動かした方が回復が早いですから、そうできればいいですね。

今回の渡航で最も心配していることは、自分なんかじゃないですね。日本に残す家族。コロナ禍という現状でもあるし、高齢の母はやはり心配です。何より、今回の手術の件は伝えていません。仕事で渡航すると伝えました。仕事と言っても反対する母親です。本当の事など言えません。相方に家の事は頼んで出掛けますが、その相方もコロナ禍で仕事は減っているし、どうなることやら、です。

とは言うものの、私も既に48歳。SRSをする最後のチャンスと思っています。49歳は縁起が悪いですし、50になってするのもどうかと。女性なら閉経する歳で、立派な更年期。私もいつまでも若くはありませんが、後悔して生きたくはないじゃありませんか。今を前向きに生きるために。

積年の願いが叶う、タイ渡航。期待は勿論ありますが、今は不安の方が多大です。
海外旅行は過去に3回経験があり、片言ですが英語も何とかなるので不安はありません。エアホテルの予約から、病院の手続きまで、何とか漕ぎ着けました。ガモンホスピタルは性別適合手術では有名で、日本人の利用者も多数。実績はトップクラスですから、信頼しています。幸い、クリニックには日本人のスタッフがいらっしゃり、お忙しいでしょうけど安心感もあります。まあ、そういう意味では大丈夫でしょう。

この手術の最大の問題は、ダウンタイム。
回復までに相当の苦痛と労力を伴います。本来ないはずの穴を開け、あるものを切除する訳ですから、それ相当でしょう。それでも、望む人にとっては何にも替え難い意味があるとか。私も少なからず希望を持って臨みます。失うものもありますが、得るものの方が大きく価値があるなら。

ここに至るまでに経てきた道のりは、途方もないものでした。

まず社会的には、フリーランスで女性として働ける環境を20年前から地道に構築してきました。その上で、女装を認めてくれる伴侶(以下相方)を得ることも重要でした。最低限の社会性は大前提でした。恋愛対象が女性の自分としても、優先順位は自分でなく家族でしたし、苦痛や環境をさておいても守るべきものを最優先としました。

結果としては、独立~結婚~周知~同意のプロセスに10年以上を費やしました。気が付けば40代。それでも自分の望みは確固として変わらず、精神科医の診断をもって相方を納得させました。相方は私を理解してはいませんが、今も昔と変わらず私の一番大切な人です。

RLEは10年のキャリア。仕事も20年を超えています。相方とは12年を共にしました。この期に及んでSRSというのもまた我ながら驚きですが、経緯と将来を考えれば、遅くも早くもないタイミングだったかとも思います。

改名手続きも順調ではありませんでした。何せ駆け足での精神科通院で、特に実績の少なさが問題となりました。厳しい裁判官だったとも思います。事が大きく進展したのは、健康保険の通称名使用でした。裁判所の改名手続きの前に、精神科医の診断書が真っ先に通用するお役所で、保険証の記述に関しては政府からの通達があります。裏面に戸籍上の氏名と性別を明記すれば、表書きを通称名とすることが認められています(性別欄は「裏面に記載」と手書きしてくれます)。手続きとしては実際の使用の証明を求められますが、これは電気料金などの公共料金の請求書などが通用します。こちらも、すぐに手続きができるものです。
健康保険証の記述により、行政が認めていると証明されると同時に、医療関係の事務処理が全て通称名となり、揺るぎない使用履歴の蓄積となるのです。性別違和が理由の改名では、この健康保険から進めるのがスムーズだろうと思います。
まとめると、まず電気代電話代等の公共料金から改名、精神科医の改名診断書、それをもって健康保険の通称名化、そしてその他諸々の使用実績を添えて裁判所です。年賀状やメール程度では証拠としては不十分です。

とはいえ私の場合証拠になるものが少なかったのは確かですが、使用実績としては20歳前後まで遡ります。当時の漫画同人サークルでのペンネームからですから。バンドでもその名を名乗っていましたし、一部の仕事でも通称名としていました。通り名としては、本名よりも使用頻度が高かったですね。

そもそも女装は学生時代から友達にも知れたことでしたし、付き合っていた女性も当然知っていました。

色々と思い返しても、自分自身の性別なんて相対的なものだとは思います。周囲が男性と思っていれば男性だし、女性として扱われれば女性です。それを認めない人がいるなら、そういう事なんでしょう。周囲の誰もが認めてくれれば、その性別。ここに至るまでのプロセスでもあったし、この手術は最後の総仕上げでもあるのかもしれません。一般的には、法的に認められる事をゴールとする方が多いですが、私は婚姻していますので、現在の法律では叶いません。実質的にも手術が最後となるわけです。

精神科医の診断の中で、自分史を書くという手順がありました。
生まれた時まで遡り、自分自身を見つめ直すものです。保育園時代の幼少の記憶まで掘り下げました。小学生時代、中学高校、社会人となって、女性性を持った自分自身に一連の繋がりがあると客観視できました。私自身は、男性としては苦痛を感じたというより、控え目にはうまくやってきました。女性が恋愛対象だった事も、自分自身の性別違和を曇らせる原因でした。「女性が好きなのだから、私が女だとは思わない」でも、私自身の女性性を否定するものなどどこにもなかったのです。だから女装を辞めることはできず、ついには仕事や家庭環境まで整えて、24時間フルタイムで過ごすに至るわけです。

今は何ら問題なく、とまでは言わないものの、概ね女性として生活しています。無理なのは公共浴場くらいでしょうか。心も体も偽りなく、は不可能としても、何ら疑う要素のない体というのは、特別な意味を持つものと思っています。

私は女なんです。

そう言えるかどうか。

そもそも私には離別のトラウマがありました。大きなきっかけになったのは父との死別ですが、それ以外にも恐らく、幼少期に保育園で一人で過ごしていた時間が長かった事や、その頃からあっただろう性別への違和感と友達の少なさ、そうしたものの蓄積が今のそれなのだと思います。自覚を持ったのは、若い頃に付き合っていた女性との別れでした。

悲愴感や焦燥感、絶望感、虚無感といったネガティブな感情が、まとめてドカンと心に落ちてきて押しつぶされるような感覚です。父の死の際には、どうすることもできない現実に打ちのめされて、長らく引き篭もり登校拒否でした。女性との別れの際、その時の感情がフラッシュバックして、自分の意思でどうすることもできない状況に陥りました。以後、ストーカー気質の自覚と共に、この離別のトラウマを抑えながら生きてきました。

現在の相方も、そうした私のトラウマを把握しています。相方自身にも、母との離別や壮絶な離婚の経験があり、恐らく共通の体感を持っているのではないかと、そんな気がします。だから、大きな破局を幾度も乗り越えながら、今まで仲良くやってこれたのでしょう。

こと恋愛感情に於いてこの危険なトラウマを発動させないためには、人とは極力ドライに接することに限ります。あまり親密にならないよう。微妙な距離感を意識して、人と付き合うようになりました。逆に、何らかのきっかけでこのトラウマを感じた時は、むしろ親しく接する方向に持っていた方が落ち着きます。そして時間をかけて緩やかに距離感を保ったり、徐々に離れたりして、トラウマと付き合ってきました。

人に対してだけでなく、恐らく物にも同じ傾向が見られます。ただ闇雲に収集するような悪癖でなく、一つの物に対する拘りという形です。それが、20年以上乗り続けた愛車であったり、愛用のカメラだったりします。ドールもお気に入りの一体だけ。数が増えると、注ぎ込める感情が薄くなってしまう、そんな気もします。

そんなトラウマが、昨年末に再び蘇りました。

まさか、こんな形で再現するとは夢にも思いませんでした。

そもそものきっかけは、私の苛立ちによるものでした。

相手に不用意に感情を吐き出してしまい、傷つけてしまいました。その不和を原因として、それまでの良好な関係を壊してしまいました。いっときは仲直りしたものの、私自身の感情がコントロールできず、結局離れてしまいました。

相手にも色々な事情があることは理解していますが、もっとスマートなやり方はあったはずだし、お互い傷つけあう必要などありません。本当に申し訳なく思います。

反省しながらも、どうすればよかったのか、何が正しかったのか。その答えは未だに見つかりません。

恋愛感情でなくても、こんな深い友情があるのだと驚きを禁じ得ませんし、また離別のトラウマがこれ程根深いものなのかと、逃れようのない恐ろしさに愕然としています。

不幸中の幸いですが、細い糸はまだ繋がっているようです。お互い本心から相手を嫌っているわけではないと、思えます。またいつか、あの頃のように。そんな希望が僅かながらの救いです。

論理派でクールを装っている私のそれは、ただのカモフラージュです。一見スマートな表面の奥には、抑圧された過激で熱狂的な性格が潜んでいます。何事も諦めない不屈の精神や、無償奉仕への拘り、贖罪、二律背反を抱えながらも折り合いをつけようとする性格など、いい意味で私を形成している面もありますが、当然危険な感情でもあります。それを自覚するたびに、どうすることもできない自分に、涙を流します。

幸い、普通の友達と疎遠になる程度なら大丈夫です。

或いは、時間をかけて離れていくなら、痛手も少ないです。

長い人生、まだまだ人との別れは幾度となくあるでしょう。少しは上手に離れられればとも思いつつ、でも人に対する愛情を疎かにしない、そんな難しい問題が私の今後の課題です。かつては哲学や仏教に教えを請いました。知識としては理解していても、実践するのは本当に難しいです。

 かつてはプロとして撮影に勤しんでいましたが、今は片手間に撮影する程度で(勿論ギャラは得ていますが)ほとんど趣味での撮影のみです。それも他の趣味、登山での撮影や、ロリィタファッションでの自撮り、ポートレート撮影ばかりです。
それでも昔取った杵柄。何となく何とでもなります(笑)

 まあキリがないので適当に。

DSC_2321

DSC_2321

 このところロリィタでの自撮りばかりですが、幸い先日購入したOLYMPUSのPEN-Fがとても便利で、自撮りがしやすく重宝しています。まあその辺りは、私のInstagramでもご覧ください。

奥歯の義歯、クラウンが食事中に取れてしまい、久し振りに豊田のファミーユ歯科に行きました。ここの歯医者さんは腕は確かで好きでしたが、それも昨日まで。木曜日が休診なので一日あけて電話し、すぐに向かいました。

クラウンが取れたので着け直してほしいと伝えると、早速診療。レントゲンを撮り歯周ポケットなどチェック。久し振りだから初診扱いなので、これはまあ納得の範囲。ところが、そこから何の説明もなくただ「また取れる」「合わない」といった話をするだけで、先生は黙々と処置を進めていきます。

歯肉が被っているので麻酔、消毒、と進めながら……あれ? 穴を削り始めました。口には神経を抜く際に使うアレ(恐らく痛感神経を感知する器機)を口に挿し、もう穴が合わないから詰め物しておきます、で終了。

以前は挨拶すれば返事も帰ってきた医師ですが今日は返事なし。気に入らない患者だと態度が違うのは以前もそうでしたが、今日自分がそうされるとは夢にも思わず。それはともかく、期待していた処置とは程遠い結果に愕然とし、説明の機会もなく何ら納得出来ず「次の予約は?」と聞かれて頭に来ました。「決められないので電話します」もう二度と来るか。そんな気持ちです。

一旦出て、そういえば義歯を渡したままだと気がついて戻り、返してもらいました。

恐らく最初から、取れたクラウンを元通り接着するつもりなどなかったんだろうと、何となく思いました。何のためのレントゲンか、歯周チェックか。結局は保険医療のしがらみから、最大限の利益を追求するなら、新たにクラウンを作成して処置するのが一番儲かります。長年自営業をしていれば、そんな皮算用くらい簡単です。ここでさっさと接着なんかしてしまったら、商売人としては下の下です。

そういうことだから、詳しく話も聞かない、インフォームドコンセプトも成立しない、有無を言わさず一方的に処置してしまう。後ろめたさなのか何なのか、挨拶さえ素っ気なかったのにもそんな感覚が見え隠れします。根拠は他にもあり、うちの相方も長年ここの歯科には世話になっていますが、何年通っても一向に完治しません。保険医療の限界かな?と思いつつも、いくら虫歯が酷いからとはいえ、時間がかかりすぎです。…何だか、嫌な思いが過ります。こうした医者は数多く見てきました。先日の副鼻腔炎の際の耳鼻科と同じです。

クラウンを返してもらったにしても、恐らく他の歯医者でも対応は同じかと思いますし、折角急いで歯医者に駆け込んだのに多少歯を削られてしまいましたから、クラウンがぴったり合うこともないでしょう。自分で接着してしまおうかとも思いましたが、一生使う歯ですからそんな軽率な処置は出来ません。

近々、一日で治せる歯医者さんに治してもらうことにしました。自由診療なので高額ですが、セラミックの義歯は数時間で作成でき即日で治せるそうです。美観も耐久性も期待できますから、価値は充分です。

ファミーユ歯科、大変お世話になりました。もう二度と行きません。

KunadonicLiveSpaceSystem

 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
「事実は小説より希なり」
 架空の人物の閉じた世界のありえない話なんかより、何百倍も面白いリアル体験。そんな人生を目標に、意味不明な挑戦と挫折を繰り返しています。

2023年3月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

アーカイブ

涼規じゅん

エラー: Twitter からの反応がありません。数分待ってページを再読み込みしてください。

RSS カギの救急車Facebookページ

  • エラーが発生しました。フィードがダウンしているようです。あとでもう一度やり直してみてください。