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Archive for the ‘宗教・哲学’ Category

そもそも、捕まった時点でジャーナリスト失格です。生きて帰らなければ、何も伝わらない。生きる術も戦場を生き抜く不可欠な武器。理由が何であれ、捕まってはいけない。

それから、ジャーナリストが危険を承知で戦場に足を運ぶのも、当たり前。それが、戦争です。「行かなければいい」と仰るなら、あなたはそれでいい。しかし、何も望まずに家族や家を失う現地の人を知らずに語るべきでありません。何故それを知っているのか。その情報に、命懸けの仕事があることを忘れるべきではありません。あなたはそれでいいですが、その情報は多くの犠牲の上に存在します。

そしてこの一連の事件が、列記とした犯罪であることを、絶対に見逃してはなりません。このような理不尽な理由で彼を殺すことが許される世の中など、過去にも未来にも存在しません。

常軌を逸した相手だからこそ、その対処も決して簡単ではないし、正攻法や正しい道、答など、最初から存在しません。しかし考えること、情報を正しく受けとること、自分に何か出来ないか探ることは、とても大切な意味を持つはずです。それが、ジャーナリズムの本質。答を出すのが仕事じゃない。人を、人として考えるための糧。それが、報道というものです。

ジャーナリストでさえ、その答は簡単でないはずで、しかし現実から目を背けることができない。せめてそれを多くの人に知ってもらい、考えてもらう。何か出来ないか。もし何か出来るなら、すればいい。しなくたっていい。

今回の犯罪を目の当たりにし、後藤さんの救出を陰ながら応援しました。残念ですが、今は心よりご冥福を祈ると同時に、こうした不幸な現実が一日でも早くなくなることを、祈ります。

後藤さん、ありがとう。

父には、兄が二人いました。二人とも幼い頃に死にました。父の同僚が一人、亡くなっています。作業中の事故で、電柱の下敷きになったそうです。そんな父も、私が高校二年の頃他界しました。大腸がんでした。父方も母方も祖父祖母は全員いなくなり、叔父も何人か先立ちました。保育園の園長先生に小学校の校長先生、中学時代の友人、尊敬していた仕事上の師匠、仕事仲間のお母さんにお兄さん。皆さん病気ですね。弟の友人は近所に住んでいましたが、自殺でした。うちの相方の両親も他界しました。

死生観などと深く考えた事は幾度もありますが、父の死をきっかけに、かなりドライになったのは間違いありません。宗教も学びました。般若心經も暗唱できます。哀しみを重ね苦しみ抜き、涙も枯れ果てました。些細な別れも然程悔しくなくなりました。生きていれば、必ず死ぬのですから。生きているなら、それで充分だし。

悔いても悔いきれない。それもまた仕方なく、だから悔いのないよう、必死で生きる。それでも悔いは避けられない。耐えられようが耐えられまいが、生きるとは、そういうことなんでしょう。

私が飼っていたペットの話となると、あまりにも壮絶でここに書くにはどうかと思いますので書きませんが、グッピーとか半野良のメス猫三世代とか肉食の熱帯魚とか、そんな感じで悟っていただければ。ヤゴとか芋虫の方が、いい思い出ですね。

ま、死なんて大したことはない。みんな必ず、死ぬんですから。まだ死にたくはないですけど。

来月の誕生日で、とうとう父と同い年になります。感慨深いかというとそうでもなく、ただの通過点程度の意味しかないですが。振り返れば、やっぱり父を越えることは難しく、それでも父を越えることは一つの目標でしたし、そうして続けてきたことには、そんな意識が少なからずありました。

父が叶わなかったこと。それが何かはわかりませんが、沢山あったはず。この歳になり、たかがこの程度の人生で終焉を迎えることの無念は、はかり知れません。子供がいれば少しは汲み取れたかも知れませんが、私のことを切に案じていたのは言うまでもなく。

間違いなく越えたと断言できるのは、PCスキル。子供の頃から父と楽しみ、その遺産の上に今の糧があります。車も音楽も、写真も、登山も、スケートも、無線も、全てそこに、父の影があります。父の亡き後、その影を追い求めて続けてきたんですね。父の意思が介在していたのかと考えると、私はそう信じたいですし、それで父が喜ぶのであれば本望です。

もちろん、望み通りとはいかないでしょう。申し訳ない思いもあります。それは、父を越えたことで許してもらうしかない。どうにかここまで来て、些細なことですが、父を越えることができたと言えました。目標でしたし、自分にできることは、それしかありませんでした。

それでも尚、当たり前ですが、父を越えることは難しい。父が得意としていたことで、かなうはずもありません。同い年になることで、人生の先輩としての尊敬から、同じ土俵での尊敬に変わりましたが、だからこそ難しい。それは、短いながらも積み重ねられた人生に他なりません。同じキャリアをもって太刀打ちできるかどうか、という代物です。

そしてとうとう、私が歳上となってしまいます。若くして逝った父を越えるのは、当然のことのはず。同じ道は歩めませんから、同じことではもちろんかなわないとしても、自分の歩んだ人生で、父に負けるわけにはいきません。

いつの頃からか、そんな覚悟はありました。永遠に変わらないものなどない。しかし永遠に変わらない真実はある。永遠に変わらないものなど求めず、ただひたすら真実を求めて、生きてきました。そして、目標をもって続けることに繋がり、大きな尺度ではかることを教え、人の心が死んでも尚生き続けると、悟ることができました。

不変の真実という揺るぎない価値観。山に登ってこそ得ることができた、私にとっての究極の価値観です。それを少しでも感じないなら、私にとって何ら意味がありません。一時の栄華、儚い楽しみ、些細な快楽には、興味がありません。短い生涯で、長い時間をかけて培う、真実。それが、父と歳を同じくして残った、父の大いなる遺産です。

昔からある呼び名には、その土地に住む人々の歴史や文化を反映したものが、数多くあります。そうしたものをピックアップしてご紹介しましょう。

●ドッケ
山の呼び名としては最も古い部類でしょう。関東から東海にかけて多数ありますが、転じて「トッケ」「ドッキョウ」「とうげ」「だけ」と変化しています。いずれも高い山、飛び出したような山を意味します。東京都の有名な三つドッケ、大岳山も元々は「おおドッケ」、山梨の高ドッキョウ、三つ峠も「三つドッケ」だったと言われています。東人と呼ばれた人達の呼び名で、古くは縄文人の系統かと思われます。見た目にも分かりやすい山で、目印としての意味合いも強かったのでしょうね。

●御前山・御殿山
山梨を囲むようにこの名の山が沢山あります。山梨の方言で「ぜ」と「で」が混用される訛りがあり、「絶対(でったい)」「全然(でんでん)」「午前中(ごでんちゅう)」のような発音上の特徴があります。この御前も御殿も同じで、甲斐の国境の見張り台、すなわち出城のような山をそう呼んだものです。武田信玄は城を築かないことでも有名ですが、自らの居城も「御殿」でした。ここから「御館様」という呼び名(「親方様」とも書きます)が生まれます。御前山御殿山は甲斐の国にとって要衝とされる箇所に多く見られます。

●城山
築城と言えば、後北条でしょう。相模を支配した北条氏の出城に当たるのが城山です。有名な八王子城の周囲に特に多く見られます。小仏城山、津久井城山など。いわゆる山を城とした中世の山城を彷彿とさせます。対する武田氏の御前山と拮抗する分布も、地図を眺めると面白いですね。

●浅間
浅間神社といえば、霊峰富士。山岳信仰の総本山にして、浅間の名は各所で見られます。富士山が見える頂を浅間山と称したり、或いは富士山に似た山を富士に準えて浅間山と呼んだりします。富士山との混同を避けるためか、浅間峰、浅間嶺と称したりもします。仙元山の表記も、もしかしたらそうかもしれません。

●三国山
これは全国的に見られます。三つの国に跨がった頂のことです。当然要衝の地ですし、戦となれば両軍が鬩ぎ合う山でもあったでしょう。

山の名前は、古の人々の生活の中から生まれたものに始まり、それが信仰の対象として根付いていきます。戦乱の世では、その領主によって名前を変え、そして太平の世となり再び信仰に纏わる呼び名が増えます。

山の呼び分けは、大体富士山を基準に、富士山より急峻であれば岳、富士山と同じくらいなら山、それよりなだらかなら丸や嶺といった感じですが明確な基準などはなさそうです。

二国に跨がる山の場合、それぞれの国で呼び名が異なる例もかなりあります。三つドッケと天目山、金峰山は甲斐では「きんぷさん」で信濃では「きんぽうさん」など。

そして、未だにその由来がよくわからない謎の山名。馬頭刈山など。

山の名前は、歴史や文化、信仰など色々な切り口がありとても面白いですね。

アマチュア無線のイベント。いわゆるコンテストの一種なのですが、順位を争うものではないので、イベントと説明した方がいいですね。正月恒例のイベントで、無線を楽しむ方同士が新年の挨拶を兼ねて、電波に声を乗せてみんなでパーティーをしようというノリです。多くは初めて出会う方ばかりですが、数年振りの再会も珍しくない楽しいイベントです。

無線の楽しみ方というのも十人十色です。知人同士で連絡を取り合うだけの人もいるし、見知らぬ方々との交信を目的としたり、特に海外等の遠距離との交信に挑戦する方、コンテストやアワードを目標に交信局数やポイント数を競い合う方々など。ほとんどが男性ですが、極たまに現れる女性は色んな意味で大人気。無線は基本的に紳士の嗜みなので、ネットのような危ない話はまずありません。コールサインの存在が匿名性を排除しているので、得体の知れないチャットや掲示板よりも信頼性が高いですね。

  ニューイヤーパーティーには例年参加していますが、CQを出した年は過去1回のみ。相方の付き合いだったので、2局待機でガンガン稼げました(NYPは2局待機だと人気が高いです)。昨年と今年は相方が年始早々仕事だったため、どうしようかと考えていました。

今年の冬は寒さが厳しく、また最近は車がなかったこともあり、山から少し遠退いていました。とある友人と今夏、富士山を目指すことになり、またコツコツと体力を付ける計画を立てました。その一環ではないですが、今年の初登山とニューイヤーパーティーの参加を同時にやろう!と思い付いたのは昨夜2時。決定力と実行力が我ながら、相変わらず凄まじいですが、最も手軽に登れる最高峰プラスαで、陣馬山に決めました。

陣馬山なら、帰りに高尾の薬王院でお参りもできますし、上手くいけばダイヤモンド富士も拝めそうだしと。ある意味高尾縦走のフルコースですね。

朝9時に電車に乗り、高尾駅からバス。お正月のだらけモードたっぷりの肢体が、思うように動きません。陣馬へのルートは新ハイキングコースと呼ばれる急坂。餅のようにネバついた足の筋肉に悩まされながら陣馬山頂。到着は予定通り、11時頃でした。早速430M帯をワッチ。おーすごく賑やか。

  433. 24でCQ。最初は東屋の壁の中でコールしていましたが、レポートも芳しくなく、何より風が強くて寒い寒い! 数局と交信して一旦QRT。少し山影に隠れる東側の土手の窪みに移動しました。それでも突風が吹くとやっぱり寒い。さっきよりマシでしたが。
こちらはレポートも悪くないです。千葉や群馬、茨城、神奈川に埼玉などからガンガン声が掛かります。陣馬山は偉大だ(笑) 確かに、見晴らしからして各県は全て視界の中です。電波も飛んで当然ですね。これは要するに、スカイツリーが高いのと同じ理由です。高ければ高いほど、電波はダイレクトに遠くまで飛びます。だから山の上なんですね。

しかし寒い!手も声も震え、おまけにバッテリーも怪しくなり、13時前にQRTしました。それでもNYP参加の最低局数は充分クリアしたので無問題。早々に高尾山を目指し出発。

高尾山までの道のりは、奥高尾の縦走ルート。意外と登山客は目にしますが、あまり人数は多くないですね。ちらほらといったところ、景信山で遅めの昼食後、城山経由で高尾山へ。

高尾山は初詣客と被るため、いつも通りの賑やかさ。丁度日没前の時間帯で、これまたダイヤモンド富士を狙う方も多数。私も便乗して撮影。

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雲というか富士というか。ダメダコリャ(笑)

ヘッドランプを装着して下山。薬王院で飯縄大権現に拝謁。薬王院の参道と1号路にははだか電球の街路灯。三が日限定の照明ですが、私にはつまらない。例の「上級コース」で高速下山。あっという間に琵琶滝から山口駅へ。高速かもしか下山は衰えてなくてよかった。

さて新春初登山のフルコース。お腹一杯で帰路につきました。

 連休は、八重山奥多摩に行ってきました。

 八重山は、JR東日本と自治体が共同で推進していた「県東部JR8駅トレッキング推進協議会」の記念イベント「八重山さんぽ」への参加。普段は中々知ることの出来ない、山の貴重な植物について勉強する、いい機会でした。高尾山などでは頻繁に行われているようですが、植物に精通した先生の詳しい説明はやっぱり凄いですね。名前も知らなかった草花が、実はとても面白いんだなあと感心しきり。

 八重山は、昭和の初めに地元の水越八重さんが、上野原小学校の生徒のためにと、学校に寄進された山です。山には学校林があり、小学生の学習の場として生かされていると共に、ハイカーや市民にも開放されています。

 恐らく小学校の先生が長年、管理されてきたのでしょう。「五感の森」と題された八重山の散策マップには、それぞれのテーマに沿った植生が管理育成されています。視覚の森・聴覚の森・嗅覚の森・触覚の森・味覚の森の順で、視覚の森には目で見て楽しむ花や草。聴覚の森には葉の揺れる音が楽しめる草木。嗅覚の森にはコブシ・カリンなど匂いを楽しめるもの。触覚の森はサルスベリ・キハダ・サンショウなど。小学生が、その感性を存分に発揮して体感し、知ることの出来る森となっています。

 そうした趣旨の森の為、完全な自然林とは些か異なりますが、とにかく植生が豊かです。ガイドさんの説明抜きにはあまりにも勿体無い。四季を通じて入れ替わる花、常に変化に富んだ植物の数々に圧倒される、本当に楽しい森でした。

 続いて奥多摩むかしみち

 こちらは以前から、一度歩いてみたかった古道です。ただ、山登りではないですし、興味はあっても意欲が中々出ませんでした。切欠としては、小河内ダムの資料館に設けられた「東京国体スタンプラリー」のスタンプ。来年度の国体は西東京地区で行われます。そのPRの一環として行われているスタンプラリーが、この奥多摩町でもあるのですけど、それが奥多摩湖のほとりだったんですね。普段なら頂上を目指すトレッキングですが、むかしみちを経由して奥多摩湖に至ると丁度、スタンプ目標としてベストのルートだったんですね。そんな、個人的な理由で足を運びました。

 このむかしみちは、歴史的には大変古く、近世でも甲州裏街道として賑った道でした。元々は、青梅から小菅を抜けて大菩薩峠を越える路。甲州街道よりも2里(8km)短いことから、意外と往来があったようですね。昭和に入って、奥多摩湖となる小河内ダムの造成が始まり、この道も大きく変わりました。近年は車道が整備され、殆ど廃れてしまいました。幸い、ダムの下流に当たる部分は保存が良く、地元の努力により復活。貴重な遺構もそのままに、当時の雰囲気を残す「むかしみち」として蘇りました。

 今も残る古い集落では、この路が今も生活道路として機能しています。そうした箇所は、アスファルトで舗装されていたりもします。谷間を結ぶ箇所は、断崖絶壁を手掘りで作ったような細い道が今も健在。昔ながらの雰囲気を残しています。

 八重山にしても、むかしみちにしても、その情報量がものすごく、とてもこんなブログ記事ではまとめられません(笑) 自然の深さと、歴史の深さが織り成す、面白い山行でした。

専門家ではないので学術的な話ではありません。その旨ご承知置き下さい。

自然農法という言葉に些か興味があり、少しばかり調べてみましたが、多くの方が志向され、苦労されていることはわかりました。共通していることは、現在の化学肥料や農薬の否定、土地を荒らすような農機具の否定でしょうか。その根底に、自然の植物は本来自然が一番良い、という当たり前と言えば当たり前な考えがあります。しかし、何れも成功しているとは言い難いですね。

福岡正信さんは有名でしょうか。しかし、この農法も普及していません。量産主義の現代の農業に合わないのはもちろんですが、採取生活を越える生産性を期待するには、どうしても人間の手を加える必要があると私は考えます。広大な土地を自由に採取して回れるなら兎も角、狭い土地である程度の口数を満たすには、それなりの知恵は必要でしょう。そんなのは、日本の自然林を見ればわかります。そこから得られる、人間が口に出来る植物。必ず、食べられるものはあります。しかし、その量はあまりにも微々。採取だけで生活するなら、広大な土地を巡回しなければなりません。

学術的にも福岡正信さんのお話は面白いし、砂漠の緑化などの功績は実際、素晴らしいものだと思います。ただ、自然農法の解釈としては、確信を得ているとは思えないのです。

私が注目しているのは、日本古来から続く焼畑農法です。

http://blog.livedoor.jp/rokuten1/lite/archives/51398128.html

狭い土地で、多数の人が定住し、お腹を満たすには、最低限これだけの苦労はしなければならないという、そんな答えがあるように思います。苦労とはいえ、特別重労働というものでもない気がします。ただ自然にあるものを生かし、最低限手を加え、採取する。それだけの事です。この焼畑に比べ、水田稲作の方がはるかに手間が多いはず。米は八十八の苦労と言います。焼畑にその苦労はないでしょう。その分、収入も少ないでしょうが、ただ腹を満たすだけなら、焼畑でも充分です。

山に登り、荒廃した植林を見ると、何とかして自然の姿に戻せないものかと落胆することが多いですが、かつてはこうした植林の多くが、人の手で焼畑され、何千年も自然と共存してきたのでしょうね。時代とはいえ、植林奨励は近代の大いなる愚策だったと私は思います。広大な荒廃林、膨大な倒木、相次ぐ土砂崩れや大雨による増水、手のつかない植林が招く、取り返しのつかない自然破壊です。

現在、南米や東南アジアの焼畑が森林破壊を進めていると危惧されていますが、日本でも今の人口を焼畑で賄おうとすれば、同じことです。食料自給率など考えなくても、自然生産物のキャパシティで考えるなら、今の人口はとっくに飢餓レベルです。最早、人工的に食料を生産しないと、人間は自ずと「口減らし」を迫られるほど増えすぎてしまったのです。

逆に言えば、田畑によって人間はその数を増やしてきたとも言えます。叡知や苦労をもって、今の繁栄を築き上げました。自然農法とは、それを根底から否定するような論でもあります。即ち、それを実践する限り、自らの「口減らし」の必要性にも迫られましょう。自然農法とは、都会の人口を支えられるような、画期的な農法では決してありません。それだけは確かです。

日本古来の焼畑は、火入れをしてまず、蕎麦を撒きます。次の年は、粟や稗。翌年は雑草の背丈を越える、小豆。四年目にして雑草が影を潜め、大豆などを育てます。四年を過ぎたら、畑はそのまま自然に返し、土地の力を回復させます。再び火入れをするのは、二十五年から三十年以上のち。一年ずつ火入れする焼畑を変えながら、毎年蕎麦から大豆まで収穫できます。

もちろん、化学肥料も、農薬も、一切使いません。これで、人間は充分に生活できるのです。

縄文時代の中頃には、日本でも稲作が行われていたと、最近の調査から判ってきたそうです。水田稲作は弥生人が大陸から伝えた文化ですが、縄文時代の稲作はどうやら、焼畑だったと言われています。順序で言うなら、二年目の粟稗の頃合いが、稲作に適しているかもしれません。もっとも主食ではなかったでしょう。というか、この焼畑から得られる作物に、主食という概念はありませんね。

何れにしても、今の人口、今の文化、今の生活を支えられるだけのキャパシティを、今の地球上の自然が持ち得ていないことも明らかです。性善説だけで全てが助かるならそれほど嬉しいことはありませんが、何らかの方法で「口減らし」は必要なのかもしれません。自然の緑がなければ、車だって動きません。電気も発電できません。水も渇れます。そんな現実は、加速度的に近づいています。もう、誰にも止められないのでしょうか。

山に登って、救われる自然、守られている自然も多く目にしましたが、失われる自然も多いです。目を覆いたくなるような現実に、愕然とすることもあります。全て、人のせいです。

誤解を恐れず言うなら、取り敢えず原子力を認める私の心の奥底には、ある意味で「原発で人間なんか滅べばいい」という自戒と贖罪の念があります。原発が人を滅ぼせるなら、その後に自然は甦るでしょう。それくらい、取り返しのつかない状況になりつつあるのは確かです。皆さんもご存知でしょう。認めたくないだけですよね。仮に、そんな危機から脱出する手段があったとしても、この危機感は不可欠だと思っています。それが原点ですし。

そういう尺度での危機感を持ってしまったので、正直オスプレイとか津波とか原子力とか、ピンと来ないんですよね。死ぬときは死ぬ、そんなときなど滅多に来ない。どうせ来るならドカンと来いやと。それでもし、何億分の一の確率で自分が生き残れたものなら、その時は残された自然と共に、自然農法でもやってみたいですね。

語弊はあるかもしれませんが、国家が威信をかけて戦う場としては、これは戦争と呼べる場です。国力が勝敗を握り、総じて経済力も反映されます。既に国家間の扮装で領土問題や賠償は戦争で解決するのはナンセンスです。現代の戦争のスタイルは、イデオロギーや宗教、民族のプライドに関わる人間の根元的なものが占めています。世界大戦のような経済問題を打開する手段としてのそれは、既に過去のものです。

メダルの数は国力そのもの。経済力とも言い換えられますが、教育の質であり、それを支えるスポンサーの力であり、それを応援するファンの経済活動です。これらは富の指標でもあるGDPに比例しているし、即ち軍事力にも、全く同じことが言えます。分かりやすく言えば、競技は死者や賠償の発生しない、クリーンな戦争です。

金メダルがもたらす経済効果。日本の金メダリストがその後、どのような経済活動をしているかを見れば、その資産価値が戦争の賠償金にも匹敵するとんでもない額面だと、火を見るより明らかです。競技に人気が出れば、競技人口が増える。用具が売れ、競技場が潤い、スポンサーが儲かる。そしてさらに優れたアスリートを排出する。純粋な経済発展こそ、金メダルの目指すところでもあります。

本来、戦争とは軍隊同士のスポーツのようなものでした。民間人の犠牲など、考えられないものでした。例えば203高地にしても、日本海海戦にしても、軍隊同士のぶつかり合いです。しかし兵器の発達が民間人を巻き込むようになり、ついには単なる無差別な殺傷に姿を変えていきました。最早戦争は、人間を自滅に追い込むための方針になり下がりました。

それでも、国家間の問題はなくなるはずもありません。経済というフィールドでのし烈な争いは、途絶えるどころか益々激しくなっています。そんな中で、オリンピックはかつての冷戦時代にあったような、一種の代理戦争といっても、過言でない気がします。

金メダルの獲得は、相当の組織力が必要です。それを支えるのは、経済力。多数のスポンサーが、相応の資金を提供します。そこには、多くの国民即ち、支えるファンがいます。この膨大な組織力がぶつかり合うのが、オリンピック。間違いなく、ファンの一人一人までも一丸となって戦う、総力戦なのです。

何より、そうした多くの支えを一番よく知っているのが、アスリート自身でしょう。スポーツはお金がかかります。戦争の決め手が最新兵器であるように、オリンピックの決め手も、最新の技術や施設です。それらが先んじて開発されることで、末端のファンにもその恩恵が行き渡り、競技も益々盛んになります。

これを人類の発展と言わずして、何と例えればいいでしょう?

スポーツ。争い、競い合うことは、人間の本質だと思います。というか、自然の摂理でもあります。競争原理が生命の根幹を支えています。金メダリストが輝かしいのは、その競争原理を勝ち抜いた勝者だからでしょう。それは元を正せば、地球上に生まれた生命の、命のリレーにある気がします。

今、我々は生きています。長大な命のリレーに勝ち抜いた、生命です。今生きている生命の数とは比較にならないほど膨大な数の敗者、絶滅に至った種族がいます。オリンピックもまた、たった一握りの勝者を産み出すシステム。参加者のほとんどは、敗者。戦争で言うなら敗戦国。生命で言うなら、絶滅です。でもそれは、至極当たり前で、純粋なものです。

粘菌が集団行動で一つの生命体のような振る舞いを見せるとき、それを見つめる人間もまた似たようなものだと、そう思わずにはいられません。命の火を繋いだものなら、或いはその栄光を後世にも受け継げたものなら、それはまさに生命の生きる姿そのものであると。

今回のオリンピックで喜ばしいのは、マイナー競技でのメダル獲得が相次いでいること、個人でダメでも団体でメダルを取れていること、金が少なくてもメダル数としては充分成果をあげていること、の三つですね。
マイナー競技の選手は、金銭的にとても過酷な状況にあったりします。先述の経済効果が機能しないのです。それを少しでも打開するには、メダルを取って競技の楽しさをアピールすることに尽きます。フェンシングやアーチェリーなど、今後盛んになってほしい競技ですね。
団体でのメダル獲得は、これこそ組織力の賜物です。たった一人の英雄を産み出すシステムでは、団体で勝てません。選手層が厚くなければダメです。団体自体は数名でも、それを根底から支えるスポンサーやファンとなると、個人の比ではないのです。卓球、体操、水泳、いずれも日本の誇る素晴らしい育成環境の賜物だし、彼らを応援するファンの数も凄いです。
そして、金メダルだけでなく、銀、銅、そして入賞です。トップに立つのは目標ですが、目的ではありません。スポンサーもファンも金メダルを目指して頑張っていますが、取れなくたっていい。それを目的にしているおかしな国はあるものの、そう簡単に頂点に立てるものでないことは、本人はもちろん真剣に応援している人たちこそ、良く知っています。目標だから銀や銅だってあり得るけど、誰もそれじゃダメだなんて言うはずがない。

お家芸の柔道が、そういう意味で大変なことになっていますけど、むしろこれは、既に日本の柔道が「世界のJudo」になり、柔道でなくなってしまったと考えればいい。大体、青い柔道着なんて柔道じゃないです。体重別というルールも「柔よく剛を制す」の精神に反します。世界のJudoなんかほっといて、日本の柔道の発展に力を入れるべきかと。日本不在のJudoなんか、インドと何の関係もない「カレーライス」、中華でも何でもない「ラーメン」と同じです。世界に迎合し格闘技離れしてしまったそれとは見切りを付け、今本来の柔道を見直すいい機会のようにも思います。

まあ柔道を東京オリンピックで推したのはわからないでもないですが、もっとオリンピックに相応しい競技があったんじゃないかと思いますね。古くからある日本の伝統的な競技で例を出すなら、流鏑馬とか。近代的な変革が必要ですけど、面白いと思いますよ。

そろそろ誕生日です。昨日はささやかながら相方がご馳走してくれました。休みが昨日しか合わなかったので。

この歳は間違いなく、私にとっては節目です。理由は、父。父が余命宣告三ヶ月を告げられた歳だからです。癌ですから、その遺伝子を50%の確率で、私も持っています。父を越えることなど何一つ無いだろうと思っていましたが、何事もなければ歳だけは越えます。何だか、奇妙な感覚です。

アンチエイジングも、歳に抗うことも、もちろん健康でいることも、私にとっては宿命です。何せ子供がいませんから。せめて、与えられた命は最後まで全うしなければ、先に逝った父に申し訳がたちません。この程度の生涯で旅だった父を思うと、時間を無駄に過ごせません。何をするでも、一所懸命。結果を出すことでなく、その一分一秒を真剣に生きる。ただそれだけです。

今年の始めに、父と大変仲の良かった叔父が急逝しました。近親が一人、また一人と逝く中で、その生き様を胸に刻みます。そんなのは格好の良し悪しでもないし、偉業の多少でもない。関わった毛の先程の関わりこそ、その人の生きた証し。それを我が身に生かし、繋いでいくことが、本当に「生きる」ということになるのかと。何れにせよ永遠も不死もない。だから必死に生きるのだし、それ以上もそれ以下もない。その生き様こそ生そのものです。

後悔なんぞ、何一つありません。父が死んだその瞬間から、一分一秒後、いつ死んでもおかしくないと思って生きてきましたから。ただ懸命に生きるのみ。生きるとは簡単に言っても、難しいことですが、でもその時を懸命に生きることはできます。懸命に生きていれば、後悔はしないもの。取り返しのつかない失敗はしないし、諦めもつくし、多くのことを許せる。どうせいつかは死ぬんだから、細かいことは笑って過ごせる。時間は絶対だから、どうにもならない代わりに、全てを解決してくれます。

あ、相対性理論では時間は絶対じゃないですが。まあニュートン力学的に時間を解釈してください(笑)

時間は稼げません。投資もできません。お金よりも身に付けた才能よりも大切。土地も資産も学歴も、時間の尺度の前には一切が価値を持ち得ません。現在の地球上で生命の根幹にある唯一絶対的な尺度は、時間です。一秒の価値は、千金に値します。

秩父の盟主、武甲山。

古くからの山岳信仰の対象で、頂上には御嶽神社があります。蔵王権現を祀った御嶽神社は奥多摩の御岳山と同様、古くから信仰の対象でした。

一方で、武甲山は秩父セメントの最大の採掘場でもあります。特に昭和の高度成長の時代に、多くのセメントがここから全国的に使われました。その量は想像を絶するほど大量ですが、今の山の形を見れば、その膨大さが窺えます。

山に登ると、いつも感じることがあります。登山をして自然に触れるといいながら、その行為そのものが自然へのダメージになっていないか。土足で山に踏み入ることは結局、山を保護するどころか自然を失うことに繋がらないか。

アメリカの自然公園は、通常は一般人の立ち入りが厳しく制限されています。狼を絶滅させてしまった歴史への、反省の意図が反映されているのかも知れません。たとえ山火事が発生しても、消火活動はしません。山火事もまた、自然の現象に過ぎないからです。

日本の自然公園は、立ち入りを制限するものではなく、むしろ積極的に人間の手で守っていこうという方向性でしょうか。古来から日本人の自然観は、自然と一体になるような信仰があり、その恵みを利用し生活に欠かせない存在でもありました。ですから、そもそも立ち入り禁止にして隔離することは、自然観にそぐわないのでしょう。狭い日本で、その恩恵を抜きにできないという事情もあります。

日本人の長い歴史は、自然との難しい折り合いをどうつけるのか、それそのものでもあるように思います。捕りすぎを防ぐために、狩を禁止する神域を設けたり、子連れの親子を狩らないこと、若い芽を必ず残すこと、渓流魚の禁漁期間などもその最たる例です。自然に歩み寄りながら、その恵みを最大限に利用するために、それを根絶やしにせず守ることを怠らなかった。だからそれらが今に伝えられているんですね。

しかし、明治の近代化の流れや、昭和の高度成長の時代は、そうは行かなくなった現実があります。特にニホンオオカミの絶滅は典型的です。狼は、こちらから手出しをしなければ、人間を襲うことはありません。古くは山の神として崇められ、大切にされてきました。それが秩父にある、三峰神社の御神体として今も守られています。

この武甲山の姿は、そんな難しい自然との折り合いを象徴するような姿。町を作るということは、山を削っていくことでもあります。普段は意識しなくとも、どこかで必ず傷つく自然がある。昔は、木材だけを大切に使い、町を築きました。今は最早、自然の犠牲なくしては電柱1本立たないのかも知れません。わずか100年前は、ここまで酷くなかったようにも思うのですが。

こんな武甲山にも信仰の歴史があり、むしろそれが、山の姿を保つに至る「自然公園」になっています。ギリギリまで削られた採掘場のすぐ裏に、御神域が広がっています。裏と表、まるで日本人の心の中を透かしてみたような。ジレンマというか。

狭い国土ですから、立ち入りを制限できる自然公園を作ることは難しいでしょう。またそんな自然の恩恵を古くから利用してきましたから、そうした自然保護の形もナンセンスです。しかし急激な発展は、やはりそれ相応のしっぺ返しを伴うものだったのですね。それを止める手立ては、例えば足尾銅山の話や白神山地の話などありますけど、数は少ないです。

今回の登山で気付いたことは沢山ありますが、ふと思ったことだけ書いておきます。

消防法。かつては木造の高層建築を3階までとしていました。つまり、五重塔や天守閣を作ろうとしたら、全て鉄筋コンクリートになってしまうのです。2000年に法改正され、現在は建築できます。その頃に再建された天守閣や五重塔など、みんな「ビル」な訳です。大阪城や名古屋城など、訪れて愕然とした方も多いでしょうね。そしてそのセメントは、この秩父セメントが使われているかも知れません。武甲山の一部で作られたかも知れないということです。

木造なら、植林したり間伐したりの手間はあっても、失われることはありません。日本の古くからの建築は、決して資源を無駄にしていませんでした。しかも植物は、二酸化炭素を吸収し、川の水を溜め込むかけがえのない存在。木造建築は日本人が培ってきた、最高にして最強の「技術」ではないかと思います。武甲山の神域は、厳粛な雰囲気の杉林ですが、そんな木々こそ日本の誇るべき「資源」じゃないかと、再発見した次第です。


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 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
「事実は小説より希なり」
 架空の人物の閉じた世界のありえない話なんかより、何百倍も面白いリアル体験。そんな人生を目標に、意味不明な挑戦と挫折を繰り返しています。

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