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Archive for the ‘ニュースと政治’ Category

WarmBlueとは世界自閉症啓発デーにちなんだイベントです。MAZEKOZEの社会、つまり自閉症だけでなく障害者やマイノリティも含めた多様なハンディキャッパーへの理解を広め、誰もが自由に社会参加できることを目指す集いです。

Warm Blue 2017

ゴスロリ界の重鎮で多方面で活躍されているBrilliant Kingdom(以下BK)のお二人もこのイベントに参加されていて、今回私はBKのお誘いで参加させて頂きました。

いわゆるゴスロリ、ロリィタファッションを愛好する方々が、BKの呼び掛けで集まりました。私もその一人。渋谷はロリィタファッションの発祥地でもある原宿の界隈。コンセプトカラーの青をメインとしたロリィタファッションを着込んで、渋谷の街頭やネットの映像での広報を担いました。

ロリィタはとにかく目立ちます(笑) 広報活動には適任ですね。他にも青いカラーのクルマや青く飾ったハーレーのグループもパレードをしていました。

ポルシェにも青いデコレーション。皆でマスキングテープで飾りました。

パレードを見送ったら、グループに別れて別会場へのスタンプラリー。私らが向かったのは渋谷区神南小学校。そこでは「アンプティサッカー」の体験会に参加しました。

アンプティサッカー

アンプティサッカーは、片足でプレーするサッカー。ゴールキーパーは片手だけでプレーします。杖を使い、通常のサッカーとは若干違うルールで競います。

杖があるとはいえ、走るのも蹴るのも一本足。実際に体験してみると、かなりハードな競技だと思いました。私は偶然にも登山で杖を使うのには慣れていて、歩くのと走るのはスムーズでしたが、いざボールを蹴るとなると難しい! 体験会ではPKをさせて頂けましたが、私は見事に大ゴケ。元々球技は苦手なんです(>_<)

教えて頂いた方やプレーヤーの皆さん、片足片手とは思えないプレーをされていて、凄かったです。こんなに凄い競技だったとは。もっとたくさんの方々に知って頂きたいですね。ホントに凄いですよ!

その後は街頭でチラシ配り、そしてスクランブル交差点を青く染めて終了。

街頭では、特に外国人の方々にゴスロリが大人気。すぐにカメラに囲まれます(笑) 普段なら写真撮影を断るのが当然のロリィタファッションですが、今回は広報担当です。写真を撮ってもらうことも大切な認知活動なのです。持っていたチラシもあっという間になくなりました。凄い人気です(笑)

幸い大事もなく無事に終了しました。こんな有意義な活動に参加できて、本当に良かったです。ハンディキャッパーやマイノリティ、あらゆる人が理解しあい、参加できるということ。むしろ私の方が参加している皆様から、たくさんのパワーを頂きました。誰もが笑顔で、素晴らしい方ばかり!

是非次回も参加したいですね。皆様本当にありがとうございました!(*^^*)

うーん。NHKにあるまじき、かどうかは知りませんが、言論統制の臭いがぷんぷん漂ってくるのでその点に於いては理解しかねる、かなあ。大越さんのポジションはかつては今人気の池上さん辺りだったのかな。

ふと思い出したのはやはりNHKの朝ドラで、これも大人気だった花子とアンの、政府によるラヂオへの「あの」シーン。少しずつ、しかし確実に、報道は自由を失っていき、国民は誰も気付かず最後はプロパガンダ一色に染まる。

恐ろしいのは、ナチスが政権を獲得し、独裁制を布石できたこと自体が合法であったという事実。反対意見も対立野党もきちんと存在したし、最初から100%の得票率で出現した訳じゃない。法律を的確に制定改正し続けて、年月をかけて独裁制を確立しました。最も効果をあげたのは言わずもがな、報道による思想統制。政党が効果的にかつ、都合よく報道をコントロールすることで、独裁政治を実現しました。多数決という合議に基づいて。

ゆえにその反省から、欧州では報道に政府を監視する機能を求め、また認める風習があり、それがあの最悪の政治体制の出現を防いでいると、信じています。報道の自主性、ひいては明確な対立すら、権利として確立しています。それが政府の暴走を食い止める、最大にして唯一の防壁だからです。

大越さん一人の意見がどうこう、という話はともかく。民放には池上さんもいるし、古舘さんもいますが、公共放送とはいえやはりこのやり口はどうかと。餓鬼っぽいというか、小さいというか。沖縄の件もそうですが。

この小ささがなあ。目指すところはあれなんでしょうけど。私がこんなことを言ってるうちは、まだまだ甘いです。小泉さんなら出来たんでしょうね。小泉さんがもしこの方針で、今トップにいたなら。隣国と関係が悪化しても相手からグウの音も出ず、拉致被害者をかっさらってくる位の、ねえ。

でも個人的には、民主党時代が一番良かったです(笑) 「社会実験」は楽しかったなあ。やっぱり円高がいいなあ。

そもそも、捕まった時点でジャーナリスト失格です。生きて帰らなければ、何も伝わらない。生きる術も戦場を生き抜く不可欠な武器。理由が何であれ、捕まってはいけない。

それから、ジャーナリストが危険を承知で戦場に足を運ぶのも、当たり前。それが、戦争です。「行かなければいい」と仰るなら、あなたはそれでいい。しかし、何も望まずに家族や家を失う現地の人を知らずに語るべきでありません。何故それを知っているのか。その情報に、命懸けの仕事があることを忘れるべきではありません。あなたはそれでいいですが、その情報は多くの犠牲の上に存在します。

そしてこの一連の事件が、列記とした犯罪であることを、絶対に見逃してはなりません。このような理不尽な理由で彼を殺すことが許される世の中など、過去にも未来にも存在しません。

常軌を逸した相手だからこそ、その対処も決して簡単ではないし、正攻法や正しい道、答など、最初から存在しません。しかし考えること、情報を正しく受けとること、自分に何か出来ないか探ることは、とても大切な意味を持つはずです。それが、ジャーナリズムの本質。答を出すのが仕事じゃない。人を、人として考えるための糧。それが、報道というものです。

ジャーナリストでさえ、その答は簡単でないはずで、しかし現実から目を背けることができない。せめてそれを多くの人に知ってもらい、考えてもらう。何か出来ないか。もし何か出来るなら、すればいい。しなくたっていい。

今回の犯罪を目の当たりにし、後藤さんの救出を陰ながら応援しました。残念ですが、今は心よりご冥福を祈ると同時に、こうした不幸な現実が一日でも早くなくなることを、祈ります。

後藤さん、ありがとう。

我が家はかれこれ十数年前に建てた注文住宅ですが、当時の流行りは高気密とバリアフリーでしたでしょうか。二世帯住宅で設計し、当時の一通りの装備は申し分ないのですが、この十数年の時代の変遷は凄まじく、時代の遺物のようなアラも今となっては散見されますね。

当時でもオール電化の考え方はあったかもしれませんが、火付け役となったのは太陽光発電でしょうね。タイミング的にブームの少し前で、無駄な設備投資をしなくて済みました。太陽光発電の弱点はコスパが悪いことですね。これが改善しないと、残念ながら元が取れません。

高気密住宅は、省エネの流れの中から生まれた発想ですが、原子力や太陽光の無限のエネルギーを前提に考えられたのは明白です。密閉された住宅では、冷暖房が必須でフル稼働します。湿気がこもるので除湿も必要、ハウスダストが蔓延しますから、空気清浄機も欲しくなります。なんとまあ、いい商売ですね(笑) 省エネどころか、巨大な温冷蔵庫です。

その結果、ハウスダストにダニやカビが蔓延り、シックハウスに陥ります。自然に逆らって家を設計した結果、人間にとっては全く心地よくない家となってしまいました。とはいえ何もしなければ、夏暑すぎ冬寒すぎ。酷いものです。

オール電化の基本設計もこれに準じるかと思います。自然にやさしくない家です。

最近購入した本に、冷暖房を極力使わない家の設計について書かれたものがあります。これは面白かったですね。夏は風通しや遮光を考え、冬は陽射しの取り込みを最大限にする家の作りです。これはもう目から鱗で、冷暖房に頼ることの愚かさや、窓の作り次第で無冷暖房でも快適な家屋になるともありました。断捨離なんて考え方もありますけど、諸悪の根元「冷暖房」をミニマムにし自然の力を最大限に取り入れる考え方は、私のポリシーにもピッタリ。

とはいえ、家を作り替えるなんて出来ません! でも、ちょっとしたコツや、簾・ヨシズなどを適材適所で取り入れるなど、思想はすぐにでも生かせるものばかり。早速、冬場ながら「換気」を取り入れてみました。

すきま風が入るので、高気密に慣れた体には少し寒いですが、何より湿気がどんどん外に出ていくのがわかります。窓の結露が全くなくなりました。今までは「加湿」という考えに囚われていましたけど、湿度計を見ても50%前後。結露するから空気が乾き、加湿しなければならなくなり、冬でもカビだらけになる、という構図を断ち切ることができました。湿気なんて、台所の日用品だけで充分だったんですね。この湿気を循環させることが大切だったんです。

この無冷暖房、なかなか面白いので、しばらく填まりそうです。

サイクル24は現在「夏枯れ」と言われる状況で、電離層が物凄くアクティブなんですがアクティブ過ぎて、遠方の局はノイズに埋もれてしまうというか、海外とは交信しづらいのがこの季節。スポラディックE層(通称Eスポ)が強力で、国内通信は驚くほど快適。ハンディの5W程度でも北海道やら沖縄やら、とんでもない遠方と交信できる、11年周期の太陽活動に伴うスペシャルシーズン真っ只中です。今年を逃せば、次は早くとも11年後。太陽活動が停滞するかもな噂が本当になれば、もう生きている間には二度と楽しめないかもしれません。

そんな中で、つい先日21Mでガツンと聞こえてきたロシアの局。コールサインはRI0Fでした。比較的近いのかなと声をかけたら何の苦もなくRS59でコンタクト。ネットで調べてみたら、ありました。

http://www.ri0f.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E/?mobile=1

ロシアのクラブ局による、ペディションというか。QTHは、南クリル諸島。日本で言う、北方領土ですね。

案の定、国内では否定的意見が多いです。かの局と交信することは、領有を認めることになると。私はそこまで考えて交信したわけではないですが、別に後悔もしていません。そもそも、ハムなら紛争を問題視するべきではないから。

まあ、気持ちはわかりますが、ここは冷静に。国際法に則って話をしましょう。領有権は、基本的に実効支配が決め手になります。つまり、北方四島は支配しているロシアのものというのが、国際的なルールに基づく見解です。ややこしいのは、太平洋戦争に関する終戦協定。サンフランシスコ平和条約が、この四島の領有権を日本に帰属させていること。そして、かのロシアとは、太平洋戦争に関しては和平条約を未だ結んでいません。共同宣言という、ぬるい締結があるだけで、領有問題の解決は「先送り」してしまったのですね。で、こうした問題があるわけです。

親日家でもあるプーチン大統領は、「引き分け」を提案していましたね。これは大変画期的な提案なんです。そもそもロシアは、北方四島を第二次大戦で勝ち得た自国領土だとずっと認識しています。長らく「領土問題など存在しない」と言い続けてきたんですね。この言葉、最近よく耳にしますね。そう、尖閣諸島。日本は中国に、この台詞を使っています。ロシアが経済発展するなかで、日本との結び付きが重要になり、領土問題も無視できなくなってきました。メドベージェフ氏は強硬路線を貫いていましたが、云わばこれがロシアの常識。ロシア人も住んでるし、町も港も軍隊もある。尖閣諸島なんかより、よっぽどしっかり領土を守っています。だから、国際的にも法的にも、ロシア領と認めざるを得ません。これに異を唱えて「我が国の領土」とか言い続けたら、これも彼の国に似ていますね。韓国が竹島に対して、或いは中国が尖閣諸島に対して使う表現と同じです。決して真似をしてはいけません。

実効支配が決め手となる以上、支配しているなら領有権など触れもせず、淡々と守ればいい。支配できていないなら、諦めるしかない。もし相手に一握の良心や、もしくは互いに利益のある取引条件が成立するなら、それは棚からぼた餅と言うもの。四島を二島ずつとも解釈できるプーチン氏の提案は、歴史的にも驚くべき譲歩案ですし、これは日本にとっても意義のある話かと思っています。

尖閣諸島は支配していますから、アメリカの力を借りてでも守るべきですが、竹島は韓国の日本に対する敵視政策を一切排除できるなら、領有権を放棄してもいいんじゃないでしょうか。韓国は小さい国ですし、かつては日本でもありました。中国やロシアといった大国ではないし、古来から本当の意味での親しい隣国なはずです。竹島の放棄と引き換えに、慰安婦問題を解決出来るなら。譲歩でなく、お互いの未来志向として。

今はロシア領の、南クリルからのCQ。交信も、何ら憚るものはありません。少なくとも、ソ連とは大戦で負けた訳ですし、実効支配しているのですから、何を言っても無駄です。戦争を放棄した日本は、話し合いで領土を得るしかありません。プーチン氏が経済的な結び付きを重視している今、武士らしく引き分けで決着するのは、究極の未来志向だと私は確信しています。

ロシアの局が、北方領土で移動運用したとて、彼らに何の悪意があるでしょう。実効支配とはそういうものです。我が国も毅然とした態度で、尖閣諸島や沖の鳥島で移動運用するべきです。韓国の局が竹島で移動運用したなら、それもまた素直に認めるべきです。それを政治利用だと言うなら、そう言うこともまた政治利用に他なりません。何の問題も挟むことなく、ただ交信すればいいんです。コールサインが何だって別に関係ありません。地球上に色んな境界線があるように錯覚していますが、宇宙から見れば、線なんかどこにもないんですから。

ロシアの珍局。QSLカードも楽しみですが、いずれは日本人が何の問題もなく、移動運用できるようになることを願います。それは、Jでもいいし、Rでもいい。そんなの、大した差ではありません。

 皆様は「カギの救急車」という鍵屋さんをご存知ですよね。テレビのニュース報道でもよく取材協力している、日本で一番有名な鍵屋さんのグループ。全国に店舗があるので、検索結果では全国的に、各地の店舗が出てきます。

 ところが複数のキーワードで検索をかけてみると、なにやら怪しい鍵の救急車が出てきます。ポイントは、カタカナのカギでなく漢字の「鍵」としているところ。「鍵の救急車」はいわば類似商標ですね。鍵の110番救急車とか、鍵の24時間救急車とか、例を上げるとキリがないですが、間違いなく商標法に違反するものです。便乗商法を意図しているのでしょうけど、笑わせてくれるのは、鍵屋さんを名乗っているのにこんな露骨な違法行為をしているということですね。商標を盗む鍵屋ですよ。お客さんを馬鹿にしているし、こんな業者に鍵を託したら、何をされるかわかりませんね。顧客名簿を闇で売ってたり? 鍵のデータまで持ってますから、泥棒に情報が流れているかも?

 鍵屋さんに最も必要なものは「信用」ですよね。「鍵の救急車」を名乗っていると「私達は信用できない鍵屋です」と言っているようです。笑いを通り越して、救いようのなさに悲哀すら感じます。

 最近の検索エンジンはよくできていて、「カギの救急車」と入れれば間違いなく、正規のグループ店舗しか出てきませんが、「カギの救急車 テレビ」と入れると、こうした違法業者が出てきます。仕事柄ウェブサイトの制作に携わっていますが、こうした悪徳商法の業者は昔から後を絶ちませんね。

 とにかく扱うものが鍵なだけに、ご利用の際には皆様も充分ご注意ください。鍵屋さんの一番の売り物は「信用」のはずです。商標泥棒に鍵を任せてはいけません(笑)

 そういえば、カギの救急車に商標権に関する訴訟があったようですが、和解が成立した後に商標を変更するのでなく、会社名を変えてそのまま営業しているようですね。ひどいもんです。

「テレビで有名な鍵の救急車」と名乗る違法行為ですよ

前々から書きたかったことを、ちょっとだけ書いておきます。

不況不況と言われて久しいですが、私は別に不況じゃないと常々思っていました。産業構造が変わっただけだと。通信や物流の発展、グローバル化、嗜好の多様化が、これまで日本の経済成長を支えてきた大企業にとって風当たりが悪いだけで、国民の生活が逼迫していたり、苦しいようには感じません。

デフレも確実に浸透し食費は大分少なくなりました。ネットで欲すれば何でも安く手に入る。大型の量販店に並ぶアジア製の品々は安くて品質も素晴らしい。数字だけ追いかけてしまえば、確かに日本製品は力が削がれているようにも感じるし、その分打撃も受けているでしょう。でも、私が社会に出た頃の、酔狂な泡に踊らされる社会より、余程今の方が健全に感じられます。

戦後日本がここまで来れたのは、まず朝鮮戦争の特需があって、冷戦の西側に組み込まれることで安定した石油資源を確保できるようになり、工業製品の輸出で経済を担保できるようになった。もう、そういう時代ではなくなっていると。いつまでもそれに固執していては、追随するアジア諸国にいつかは並ばれてしまう。どうしたらいいか? 答えはただひとつ。追随されない道を、歩むしかありません。

難しいようですが、今の若い世代などは、敏感に感じ取っていると思います。例えば、もう自動車の時代は終わった。これは10年ほど前から顕著な傾向です。これからの地球環境を担う世代は、化石燃料を消費して地球を温暖化させる乗り物に将来がないことを、心の底から理解しています。だから車に乗らない。興味がないんじゃないんです。興味のベクトルが根本的に違う。ガソリンを燃やす以上、カッコ悪い。二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すような車じゃないと、ダメなんです。

不況不況と言っているのは、バブルを知る世代だけ。バブル以降の世代は、この所謂不況を通常とみています。如何に物の値段が下がろうとも、安いだけでは売れないことも知っている。100Yenショップに並ぶ、涙ぐましい知恵と工夫こそ、この時代を懸命に生きる製造業の方々の、誇るべき努力です。日本の中小企業でなければ作れない製品だって、星の数ほどあります。日本の農産物だって素晴らしい。高級食材として海外に売れる品など、それこそ日本の製造業に並ぶとも劣らない、立派な国産品です。

ものを作るだけなら、誰でもできる。そればかりでは、日本は沈没します。日本の産業は、知的産業にシフトしなければなりません。若い世代は、その事を真摯に受け止めています。そのために必要なのは、もちろん大学などの高度な教育も必要ですし、知的生産物を産み出せる産業基盤の整備も課題です。何せ時流が物凄く早いので、トップダウン型の大企業より迅速な対応ができる中小企業の方が相応しい場合も多いでしょう。いずれにしても、時間や労働力に比例するような産業なんかでは、アジア諸国に全て持っていかれます。そんなものは、海外でやれって話です。

アジア諸国を見ていれば、いずれバブリーな好景気も終息し、製造業の伸びも頭打ちになるのは我々がよく知っています。その後の活路が知的産業となれば、各々の国もそれぞれ独自の知的産業を開拓してくるでしょう。既に韓国や台湾は、確実にその道を歩んでいます。

自動車の不人気の裏に、公共交通の圧倒的な利便性もあります。体一つで身を任せ、電子マネーで小銭も払わずワンタッチ。アプリが全ての乗換駅と時間を的確に指示し、何も考えずに最短時間最低料金で目的地。渋滞も事故もほとんど無い。免許も保険もローンもない。そんな都市部の公共交通に、車が敵うはずもない。国民総貧困層、マルクス経済学で言う成熟した資本主義の果てに見える、豊かな労働者層の姿にも被ります。

かたや旅行は新幹線と飛行機。その利便性に付け加え、圧倒的な高速ぶり。長距離旅行でさえ、車はお払い箱。何らメリットがない。

そんな、夢の跡にいつまでもしがみついているから、不況なんです。車に依存する産業構造も、とっくに斜陽です。車が必須な地域でさえ、黄色いナンバーの車が増え、尻窄みなのは明らか。こんな状況で、売り上げなんぞ伸びるはずもありません。

先日私はアルシオーネSVXを再び買いましたが、実のところは、もっと新しい車が欲しかった。もっともっと新しい車。原子炉搭載で燃料補給不要で炭酸ガスも出さないとか。空を飛ぶ車とか。高速道路で300km/h超で寝たまま自動的に目的地に着くとか。

そうそう、車が速度を競う時代も、10年以上前に終わってますね。同じところをぐるぐる回ってコンマ数秒を争うというナンセンスな競技自体、将来的な意味がありません。技術的に飽和し、あまりの完成度の高さゆえに、その勝負が意味を成さなくなってしまいました。人間の手に委ねる以上、公共的には速度を制限せざるを得ない。技術革新は、如何に人間を介在させず速度を上げるかの勝負に変わりつつあります。だから、勝負事としてのレースは、面白味がどんどんなくなってしまいました。

この技術革新こそ知的産業だし、車離れでもあるし、今の日本の産業構造でもあると、言えましょう。

専門家ではないので学術的な話ではありません。その旨ご承知置き下さい。

自然農法という言葉に些か興味があり、少しばかり調べてみましたが、多くの方が志向され、苦労されていることはわかりました。共通していることは、現在の化学肥料や農薬の否定、土地を荒らすような農機具の否定でしょうか。その根底に、自然の植物は本来自然が一番良い、という当たり前と言えば当たり前な考えがあります。しかし、何れも成功しているとは言い難いですね。

福岡正信さんは有名でしょうか。しかし、この農法も普及していません。量産主義の現代の農業に合わないのはもちろんですが、採取生活を越える生産性を期待するには、どうしても人間の手を加える必要があると私は考えます。広大な土地を自由に採取して回れるなら兎も角、狭い土地である程度の口数を満たすには、それなりの知恵は必要でしょう。そんなのは、日本の自然林を見ればわかります。そこから得られる、人間が口に出来る植物。必ず、食べられるものはあります。しかし、その量はあまりにも微々。採取だけで生活するなら、広大な土地を巡回しなければなりません。

学術的にも福岡正信さんのお話は面白いし、砂漠の緑化などの功績は実際、素晴らしいものだと思います。ただ、自然農法の解釈としては、確信を得ているとは思えないのです。

私が注目しているのは、日本古来から続く焼畑農法です。

http://blog.livedoor.jp/rokuten1/lite/archives/51398128.html

狭い土地で、多数の人が定住し、お腹を満たすには、最低限これだけの苦労はしなければならないという、そんな答えがあるように思います。苦労とはいえ、特別重労働というものでもない気がします。ただ自然にあるものを生かし、最低限手を加え、採取する。それだけの事です。この焼畑に比べ、水田稲作の方がはるかに手間が多いはず。米は八十八の苦労と言います。焼畑にその苦労はないでしょう。その分、収入も少ないでしょうが、ただ腹を満たすだけなら、焼畑でも充分です。

山に登り、荒廃した植林を見ると、何とかして自然の姿に戻せないものかと落胆することが多いですが、かつてはこうした植林の多くが、人の手で焼畑され、何千年も自然と共存してきたのでしょうね。時代とはいえ、植林奨励は近代の大いなる愚策だったと私は思います。広大な荒廃林、膨大な倒木、相次ぐ土砂崩れや大雨による増水、手のつかない植林が招く、取り返しのつかない自然破壊です。

現在、南米や東南アジアの焼畑が森林破壊を進めていると危惧されていますが、日本でも今の人口を焼畑で賄おうとすれば、同じことです。食料自給率など考えなくても、自然生産物のキャパシティで考えるなら、今の人口はとっくに飢餓レベルです。最早、人工的に食料を生産しないと、人間は自ずと「口減らし」を迫られるほど増えすぎてしまったのです。

逆に言えば、田畑によって人間はその数を増やしてきたとも言えます。叡知や苦労をもって、今の繁栄を築き上げました。自然農法とは、それを根底から否定するような論でもあります。即ち、それを実践する限り、自らの「口減らし」の必要性にも迫られましょう。自然農法とは、都会の人口を支えられるような、画期的な農法では決してありません。それだけは確かです。

日本古来の焼畑は、火入れをしてまず、蕎麦を撒きます。次の年は、粟や稗。翌年は雑草の背丈を越える、小豆。四年目にして雑草が影を潜め、大豆などを育てます。四年を過ぎたら、畑はそのまま自然に返し、土地の力を回復させます。再び火入れをするのは、二十五年から三十年以上のち。一年ずつ火入れする焼畑を変えながら、毎年蕎麦から大豆まで収穫できます。

もちろん、化学肥料も、農薬も、一切使いません。これで、人間は充分に生活できるのです。

縄文時代の中頃には、日本でも稲作が行われていたと、最近の調査から判ってきたそうです。水田稲作は弥生人が大陸から伝えた文化ですが、縄文時代の稲作はどうやら、焼畑だったと言われています。順序で言うなら、二年目の粟稗の頃合いが、稲作に適しているかもしれません。もっとも主食ではなかったでしょう。というか、この焼畑から得られる作物に、主食という概念はありませんね。

何れにしても、今の人口、今の文化、今の生活を支えられるだけのキャパシティを、今の地球上の自然が持ち得ていないことも明らかです。性善説だけで全てが助かるならそれほど嬉しいことはありませんが、何らかの方法で「口減らし」は必要なのかもしれません。自然の緑がなければ、車だって動きません。電気も発電できません。水も渇れます。そんな現実は、加速度的に近づいています。もう、誰にも止められないのでしょうか。

山に登って、救われる自然、守られている自然も多く目にしましたが、失われる自然も多いです。目を覆いたくなるような現実に、愕然とすることもあります。全て、人のせいです。

誤解を恐れず言うなら、取り敢えず原子力を認める私の心の奥底には、ある意味で「原発で人間なんか滅べばいい」という自戒と贖罪の念があります。原発が人を滅ぼせるなら、その後に自然は甦るでしょう。それくらい、取り返しのつかない状況になりつつあるのは確かです。皆さんもご存知でしょう。認めたくないだけですよね。仮に、そんな危機から脱出する手段があったとしても、この危機感は不可欠だと思っています。それが原点ですし。

そういう尺度での危機感を持ってしまったので、正直オスプレイとか津波とか原子力とか、ピンと来ないんですよね。死ぬときは死ぬ、そんなときなど滅多に来ない。どうせ来るならドカンと来いやと。それでもし、何億分の一の確率で自分が生き残れたものなら、その時は残された自然と共に、自然農法でもやってみたいですね。

 とある異業種交流会の方から、お仕事の依頼がありました。

蔵王高原たまご

 宮城と山形にまたがる蔵王山塊の麓に位置する、養鶏業の方からの依頼です。震災により、こちらのたまごも大打撃を受け、各方面からの支援を経てどうにか再開に漕ぎ着けたとのこと。以下、広報の記事からの引用です。

「震災前に12万羽いた鶏には、エサ不足から全ての鶏にエサを与えられず年寄りの鶏から餓死させ、全体の2/3まで減らして対応しました(これは鶏だけのことではありません)当然事業も縮小し、取引先などでも倒産するところが多く出ました。
 そうした状況の中、昨年5月初旬に、義援金がなかなか被災地に渡らないことに業を煮やした友人が同期に働きかけ62名の方から120万円を超える義援金を頂きました。更に松桜会の仙台支部を経由して同窓会からも寄付のご協力を頂きました。駒場高校の同窓生のお陰で現在も元気で働いていると強く感じています。
 つらいのは福島原発からの放射能の影響で、風評被害も響き原産物が売れず、ようやく観光客もわずかですが戻ってきていますが以前に比べればまだまだです。
 幸い、卵の場合は鶏のエサは全て輸入品ですので放射能の直接影響はありません。そこで原産物を少しでも販売したいという思いから、ショッピングサイトを作りました。」

 震災以来、何らかの形で支援をしたいと考えていましたが、自分に出来ることは限られます。可能であれば、自分の仕事でお互いが繋がり、共に利益を得られる形での支援を、ずっと考えていました。それが今回、このような素晴らしい仕事に携わることができ、本当に良かったと思っています。

 時間が経てば、震災の記憶も薄らいでいきますし、本当に困難なのは「生活の再建」だと、よく言われています。特に放射能の影響は深刻で、土地を離れての生活を余儀なくされている方々は、本当に苦労されていることでしょう。幸い直接の被害がなかった方々でも、こちらの養鶏業のように震災前の生活に戻るまでには、相当の苦難があります。

 こうした方々を少しでも助けたい。それには、何より経済活動の活性化以外にありません。売り上げが激減してしまった商売を少しでも助けようと、自分なりに携わりました。たまごの写真なども、少しでもおいしく見えるように、たまごに対するこだわりが少しでも伝わるようにと。

 WEBサイト作成・写真撮影に当たり、実際のたまごのサンプルを送って頂きました。撮影後に試食しましたが、黄身が濃くて本当においしいたまごでした。殻も固く、今時珍しい紙パックの包装からも、熱意が伝わってきました。「これは良いサイトにしないと」と思いましたね。

 たまごのネット販売は、生卵だとなかなか難しいかも知れませんが、こちらでは日持ちのする加工卵がむしろメインです。特に燻製たまごは賞味期間が3ヶ月もあり、味はもちろん香りも逸品です。

 本当においしいたまごです。ぜひ、ご賞味を(*^_^*)

語弊はあるかもしれませんが、国家が威信をかけて戦う場としては、これは戦争と呼べる場です。国力が勝敗を握り、総じて経済力も反映されます。既に国家間の扮装で領土問題や賠償は戦争で解決するのはナンセンスです。現代の戦争のスタイルは、イデオロギーや宗教、民族のプライドに関わる人間の根元的なものが占めています。世界大戦のような経済問題を打開する手段としてのそれは、既に過去のものです。

メダルの数は国力そのもの。経済力とも言い換えられますが、教育の質であり、それを支えるスポンサーの力であり、それを応援するファンの経済活動です。これらは富の指標でもあるGDPに比例しているし、即ち軍事力にも、全く同じことが言えます。分かりやすく言えば、競技は死者や賠償の発生しない、クリーンな戦争です。

金メダルがもたらす経済効果。日本の金メダリストがその後、どのような経済活動をしているかを見れば、その資産価値が戦争の賠償金にも匹敵するとんでもない額面だと、火を見るより明らかです。競技に人気が出れば、競技人口が増える。用具が売れ、競技場が潤い、スポンサーが儲かる。そしてさらに優れたアスリートを排出する。純粋な経済発展こそ、金メダルの目指すところでもあります。

本来、戦争とは軍隊同士のスポーツのようなものでした。民間人の犠牲など、考えられないものでした。例えば203高地にしても、日本海海戦にしても、軍隊同士のぶつかり合いです。しかし兵器の発達が民間人を巻き込むようになり、ついには単なる無差別な殺傷に姿を変えていきました。最早戦争は、人間を自滅に追い込むための方針になり下がりました。

それでも、国家間の問題はなくなるはずもありません。経済というフィールドでのし烈な争いは、途絶えるどころか益々激しくなっています。そんな中で、オリンピックはかつての冷戦時代にあったような、一種の代理戦争といっても、過言でない気がします。

金メダルの獲得は、相当の組織力が必要です。それを支えるのは、経済力。多数のスポンサーが、相応の資金を提供します。そこには、多くの国民即ち、支えるファンがいます。この膨大な組織力がぶつかり合うのが、オリンピック。間違いなく、ファンの一人一人までも一丸となって戦う、総力戦なのです。

何より、そうした多くの支えを一番よく知っているのが、アスリート自身でしょう。スポーツはお金がかかります。戦争の決め手が最新兵器であるように、オリンピックの決め手も、最新の技術や施設です。それらが先んじて開発されることで、末端のファンにもその恩恵が行き渡り、競技も益々盛んになります。

これを人類の発展と言わずして、何と例えればいいでしょう?

スポーツ。争い、競い合うことは、人間の本質だと思います。というか、自然の摂理でもあります。競争原理が生命の根幹を支えています。金メダリストが輝かしいのは、その競争原理を勝ち抜いた勝者だからでしょう。それは元を正せば、地球上に生まれた生命の、命のリレーにある気がします。

今、我々は生きています。長大な命のリレーに勝ち抜いた、生命です。今生きている生命の数とは比較にならないほど膨大な数の敗者、絶滅に至った種族がいます。オリンピックもまた、たった一握りの勝者を産み出すシステム。参加者のほとんどは、敗者。戦争で言うなら敗戦国。生命で言うなら、絶滅です。でもそれは、至極当たり前で、純粋なものです。

粘菌が集団行動で一つの生命体のような振る舞いを見せるとき、それを見つめる人間もまた似たようなものだと、そう思わずにはいられません。命の火を繋いだものなら、或いはその栄光を後世にも受け継げたものなら、それはまさに生命の生きる姿そのものであると。

今回のオリンピックで喜ばしいのは、マイナー競技でのメダル獲得が相次いでいること、個人でダメでも団体でメダルを取れていること、金が少なくてもメダル数としては充分成果をあげていること、の三つですね。
マイナー競技の選手は、金銭的にとても過酷な状況にあったりします。先述の経済効果が機能しないのです。それを少しでも打開するには、メダルを取って競技の楽しさをアピールすることに尽きます。フェンシングやアーチェリーなど、今後盛んになってほしい競技ですね。
団体でのメダル獲得は、これこそ組織力の賜物です。たった一人の英雄を産み出すシステムでは、団体で勝てません。選手層が厚くなければダメです。団体自体は数名でも、それを根底から支えるスポンサーやファンとなると、個人の比ではないのです。卓球、体操、水泳、いずれも日本の誇る素晴らしい育成環境の賜物だし、彼らを応援するファンの数も凄いです。
そして、金メダルだけでなく、銀、銅、そして入賞です。トップに立つのは目標ですが、目的ではありません。スポンサーもファンも金メダルを目指して頑張っていますが、取れなくたっていい。それを目的にしているおかしな国はあるものの、そう簡単に頂点に立てるものでないことは、本人はもちろん真剣に応援している人たちこそ、良く知っています。目標だから銀や銅だってあり得るけど、誰もそれじゃダメだなんて言うはずがない。

お家芸の柔道が、そういう意味で大変なことになっていますけど、むしろこれは、既に日本の柔道が「世界のJudo」になり、柔道でなくなってしまったと考えればいい。大体、青い柔道着なんて柔道じゃないです。体重別というルールも「柔よく剛を制す」の精神に反します。世界のJudoなんかほっといて、日本の柔道の発展に力を入れるべきかと。日本不在のJudoなんか、インドと何の関係もない「カレーライス」、中華でも何でもない「ラーメン」と同じです。世界に迎合し格闘技離れしてしまったそれとは見切りを付け、今本来の柔道を見直すいい機会のようにも思います。

まあ柔道を東京オリンピックで推したのはわからないでもないですが、もっとオリンピックに相応しい競技があったんじゃないかと思いますね。古くからある日本の伝統的な競技で例を出すなら、流鏑馬とか。近代的な変革が必要ですけど、面白いと思いますよ。


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 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
「事実は小説より希なり」
 架空の人物の閉じた世界のありえない話なんかより、何百倍も面白いリアル体験。そんな人生を目標に、意味不明な挑戦と挫折を繰り返しています。

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