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Archive for the ‘音楽’ Category

エアリズムとかKYとか最近何かと空気が話題ですね。漢方では気血水の「気」に当たるでしょうか。科学的な話だと気体に該当する物質の一形態ですが、ここでの空気感とは、アーティスティックな感性に於ける「空気」で、漢方の気が概念としては近いかもしれません。

生業でもある写真では、この空気感の表現というものが、難しくも結構重要だと思うようになりました。KYな写真、つまり「空気が読めない」写真は駄作で、その場の空気感が見えてくるような写真は良作。この場合の空気は、臨場感とも言い換えられます。

写真に於ける臨場感にも色々ありますが、感動をもたらすような秀作には、何かしらの共感を伴う空気感が介在しています。同じモデル撮影でも、撮る人によって如何様にも変化するのが、そんな空気感。写真の場合、目の前の光景をどう処理するかというテクニックだけでなく、実際にはあらゆる時と場所を高い精度で選択していくという、ロケハンがその要素が鍵を握っています。ネイチャーフォトは、写真家が空気を作り出すことはほぼ不可能で、専ら目の前の光景を切り取り、そこから空気感を引き出していくというプロセス。人間の意思ではどうにもならない、圧倒的な神々の存在と対峙するような、そんな感覚です。逆にモデル撮影やスタジオ撮影だと、空気を盛っていく作業で、目指すのはネイチャーフォトのその神々の存在、かもしれません。日本には八百万の神がいます。その神々を写し出す、それが空気感の真骨頂とも言えるでしょうか。

話は変わって、オーディオ。この分野でも空気感という表現が使われます。オーディオの究極は、生の音です。如何に本物の音に近づけるかが基本的なポリシーです。アナログでもデジタルでも、二次元の音の波形を忠実に記録し、それを忠実に再現させます。分かりやすい話ですと、AMラジオとCDの音の差ですね。周波数帯域の違いで、AMラジオはチープに、CDの音はリアルに聞こえます。人の息づかいや、残響音、自然なら鳥のさえずりや川の音など。これらの空気感も、写真と同様の享受するしかない神々の領域から、造り出していくアーティスティックな領域まで、様々です。

日々の仕事でも、そんな空気感が実はとても大切です。ウェブデザインやDTPでも同じで、バナナのたたき売りであれば流暢で勢いのある口上と観客を引き寄せる熱気だし、誠実、実直な職種であれば緻密さや正確さが要求されます。商品の性格や会社の風体、極めつけは担当者の人柄こそ、その空気感の要ですね。ハートが伝わるか。そんな空気です。

突き詰めれば、あらゆるもの作りの必須要素なのでしょう。東洋に於ける気とは、「気が重い」「気が晴れる」「気が焦る」「気が強い」など、人の心とも解釈できます。空気感とはさらに、人の心をも動かすもの、かとも思います。空気の空とはからっぽという意味でなく、仏教的な「空」のことと私は解釈しています。この話となると経文の解説になってしまいますので割愛しますが、四次元時空のこの世界で、時間や空間を盛り込むような、さらには超越するような、そんな構成要素がこれ即ち、空気感ではないかと思います。

物欲に任せていろいろな物を追い求めてきましたが、とあるネットゲームに辟易して以来、すっかり冷めてしまいました。それは結局仮想のモノでしかありません。それが得られたことの幸福など所詮空虚だと気づかされ、幸福の本質を見極めるいいキッカケにはなりましたが。

以前の愛車初代SVXは、そうした物欲では得られない、貴重な糧となりました。所詮は道具。器でしかありません
。使うのは自分自身で、そんな道具で自己が飛躍するものでもない。道具は
使い手がその能力を最大限に引き出して初めて、道具足りうる。48万kmもの長い旅を共にして、愛車はボロボロになりましたが、その旅路こそ本当の意味での宝物です。

フィギュアスケートの唯一の道具は、スケート靴。安いものではないですけど、高ければいいというものでもないです。使いこなせる技あっての靴。物欲だけで得られるものなど、何もありません。

アマチュア無線も同じ。通信できて初めて意味が生まれます。登山も、スラックラインも、写真も、楽器も、釣りも、自転車も、みんな同じです。

モノに依存しているうちは、真の幸福など得られません。それを利用し、自ら磨いていくなかから、本当の価値が生まれてきます。道具に「乗せられている」うちは、まだまだ。壁あり悩みあり苦労あり。それらを乗り越えて使いこなせるようになり、そうして初めて宝物へと磨かれていくものです。

道具が人を幸せにすることはないと知っていれば、余計なモノに惑わされることもありません。作り手であれば尚更。作り出すことに幸福があり、それを手にした人はその作り手の幸福を、ほんの少し分けてもらっているだけ。本当の幸福は作り出すことそのものですから。それは、その道具を使って得られる幸福とは、全く異質です。

モノで武装しただけの人間に、一体何の魅力がありましょう。その程度の人間は、見放されるのがオチ。それらを駆使して、如何に自分を磨けるのか。そこに、物欲を越えた目指すべき欲求を据えるべきですし、そのための物欲でなければ意味がありません。

同じところを目指していれば、いつしか志を同じくする仲間が、自然と集まってくるものです。腐れ縁でなく、義理立てでも旧知の友でもない。気心知れずとも、共通の話題と意思の疎通には事欠きません。それもまた、物欲を越えた宝物でしょう。

その話題にもまた、経験が必要です。道具の話ばかりでは、ただの自慢話にしかなりません。経験則でなければ、相手の共感などないでしょう。リスペクトはそこから生まれるものですし、道具に羨望はあっても、尊敬などありえません。

人と長く付き合うためには、物欲の先にある幸福を見出だすことが肝要かと思う次第です。

昔、バンドやってました。アニソンコピー。
ほとんど知らないアニメの曲が多くて、それでも曲はそれなりに面白くて、まあ自分のやりたかった曲の多くはボツになった記憶もあるし、色々スゴい人に根回ししたりアニメに詳しくない客も誘ったり、いい思い出とそうでない思い出が同じくらいですが、大きく成長する契機だったし、それがなければ今の自分もないですから。やってよかったです。懐かしい思い出です。

さすがに今は、アニメもゲームも最早全く興味を感じなくなったので、今更アニソンをやる気は毛頭ありません。音楽の嗜好性も当時と比べて大きく変わりましたし。

で、話は昭和歌謡バンドをやりたいという話から始まりました。新しい事がしたかったので、乗りました。某氏を巻き込んで、練習に時間とお金をかけています。そのうち活動するらしいです(人任せは大嫌いなのですが)。

言いたいことも言いたくないことも山積みですけど、楽器そのものは好きなので、練習に励みます。ライブするのかどうかもわかりませんが、その際にはこの場で大々的に告知致します。さて、誰が来るかしら(笑) 誰に声かけようかしら(笑)

若気の至りで、当時やりたかったことのほとんどが、何も出来ず終いでした。当時の悔しさは今もなお痛烈なんです。あれですよ、甲子園の砂を持って帰る気分。ま、昔話ですね。

さて、某氏はボイストレーニング真剣にやってるし、キーボードもやる気だし、ドラムを探してみるなんて話もあります。某氏は気が短いので、リーダーよろしく頼みます。

写真、ベース、くるま、無線、スケート、登山。まだありそうですが、確実に続けてきたと断言できるものに限っても、ざっとこれだけあります。単に辞めなかっただけなんですけどね。

辞めたと断言できるものは、ネトゲ、RPG、ミニ四駆、アニオタ(笑)など。もう心底つまらないので、誰から誘われても絶対復帰しません。

辞めなかったもの。それは自己啓発ですね。手段であって目的じゃない。いえまあ目的なんですが、俗っぽい目標とか欲するもの全てを削り取って、一体何で続けてきたのかと問えば、そんなのは自分のため。有り体に言えば楽しいからなんですが、それは安っぽすぎる。自分を磨くため、か。そう言うとカッコいいですね。でも他人に理解されたり評価されたりという類いでなく。高尚な言い方だと、修行か。自分が出来なかったこと、やりたかったこと、それが少しずつ開花して、段々と自分のものになる。そして気が付けば、始めた頃には想像もつかなかったような高みにいる。

辞めたものの殆どは、楽しいだけで終わり。ああ楽しかった。で、何も残らない。

プロセスなんかどうでもいいですが、楽しいことのためには、苦しいこともある。いえ、苦しいことがあるから、楽しい。苦しみなく楽しめるなんて、そんなの本当の楽しさとは程遠い気がするけど、でもその実、苦しみそのものもまた、楽しみなんですね。何故苦しい思いをして山に登るのか。何故雪の降る中寒い思いをして写真を撮りに行くのか。何故指がつるような難しいフレーズを練習するのか。何故微かに聴こえる声に答えようと難しい技術や用語・設備で遠距離との交信に勤しむのか。何故氷の上をぐるぐる回るのか。楽しいからに決まってます。苦しいけど。

これは生きることそのもの、でもあります。苦しいけど、でもだからこそ楽しい。誰かと競争するわけでもなく、ただ個人の平凡な、些細な苦しみと楽しみです。楽なだけの人生なんてつまらない。生まれたばかりの頃は、食べることも歩くことも喋ることも出来なくて、そんな苦しい中で唯々必死に生きてきた。そうした生まれながらのプロセスが、今生きている自分の礎です。辞めてしまったものは、そうしたプロセスが見出だせなかった、或いは継続するに値しなかったものです。

まあ所詮は趣味ですから、誰がどう言おうと、どうでもいい話ですが。でも、辞めることがなかったという自分なりの価値観を否定される言われもなく、誉められもしますが然程嬉しくもない。高みに立ってしまえば、そこは自分の居場所に過ぎず、下から仰いで凄いとか言われても当たり前のことなので。そりゃそうですよ、苦労して登ってきたんだから(笑) で、本当の楽しさは、苦労して登ってみないとわからない。

だから今まで続けてきましたし、まだまだ続けるんですね。

そもそも伴奏楽器ですし、最も低い音域を担当するため、メロディーを奏でることは極めて希です。基本的には楽曲のコード進行に乗せてリズムを刻んでいれば、むしろそれ以上を望まれないポジションですね。それでも細かくは前ノリ後ノリだの、ライトトーンだのヘヴィートーンだの、個性にもならない個性を磨いているのか隠そうと包み込んでいるのか、今一つ得体の知れない方向性があるようなないような。

ベースの見せ場は、そのベースのベースたる生業を如何に疎かにせず遊べるか、これに尽きます。本業は放棄できないので、しっかり仕事をしながらその上で遊ばなければなりません。とうふを運びながら峠を攻めるとか、接待と称して芸者と戯れるとか、そんな感じです。ですから、楽譜のタブ譜やコード進行だけ読んでひたすらビートに乗せるだけで仕事は完了しますけど、それなら打ち込みで十分だし、わざわざ人間が奏でる必要なんかありません。

極論ですが、ベースがベースでありながら、ベースらしからぬことをする。これができて初めてベーシストですね。

よくある傾向は他の楽器の真似とか奏法を取り入れる。ギターのフレーズを加えたり、バスドラのリズムに乗せたり、まあそれくらいのおかずは、ちょっとバンドにかじっていれば何となく思い付くところです。でもそんなのはバンドやってれば当たり前の話で、ギターやドラムと呼吸の合わないベースなんか、帰って一人でやってろと言われておしまいですからね。練習中に軽くJamってベースがおかずを加えたところギターもドラムも何の気なしについてくるけど、ギターやドラムがここぞとばかりにソロパートの如くアドリブかましてくると、手も足も出ないのがベースってもんです。ソロパートを与えられない限り、とりあえず仕事しましょうねベースは。

でも、ベース。へなちょこベースの曲は安っぽいし、コードをなぞるだけのベースなんか、ねえ。じゃあどうすんの? うーん、まあ上手なベーシストの奏法とかフレーズとか音色とか、色々聴いてみて答えを出すしかないし、そこから得るしかないでしょう。ベーシストはとにかく、ベースを聴きまくる。真似しようったって簡単じゃないですが、ヒントはたくさんあります。

本当は、音楽理論をしっかり学んでそれを根拠に音作りをするのが確実なんでしょうけど、調律に縛られず不協和音も恐れないくらいでも、いいように思うことはあります。いやまあ、その方が学術的にも音楽的にも難しいですけど。いえだからこそ、遊びという解釈なんですね。学術と理論から遊びが生まれるかと言えば、意図するところのそれは生まれないでしょう。言い換えれば、実践と経験則。

不協和音のゾクゾクするような旋律なんて、聴いたことのない人が当てずっぽうにも出来ないはずだしね。まあ不協和音でなくとも、ベースはベースでありさえすれば、何でもできます。そういう解釈でいくと、細野晴臣さんなんかすごいですね。YMOの曲にこんなのあります。

当時のYMOにしてもこのベースはなかなか遊んでますね。当初は細野さんも頑なに仕事していましたが、何かブレイクしたんでしょうか、チョッパーで色々やるのが目立ってきます。テクノとはある種機械的な音楽で、その解釈にシンセがあり、シーケンサーがあって、その時点でベースなんか自動演奏でいいわけですよ。後のTMネットワークが打ち込みだけでライブをやっちゃったりするわけですけど。でもテクノだからと何も全てを機械仕掛けにする必要はなかったんですね。生身の人間が奏でる生の音楽にも、テクノロジーが介在するんです。そういう解釈のテクノじゃないかと、細野さんのベースを聴いていて思うわけですよ。

そんな細野さんのベースの遊び心、なのかどうかはわかり兼ねますが、少なくとも冒険的な野心を感じます。YMOだからこそ持ち得た気概だったんじゃないでしょうか。その後の解散で、個々の音楽性が大きく発展を遂げたことも、それを裏付けています。

ベースを弾くなら、まず基本をしっかり学んで、それから、如何に基本を守りながら基本に逆らうか、勉強、仕事をしながら如何に遊ぶか! そんなスタンスがベースという糞つまらない楽器を、下手なライトノベルやネットゲームなんかより何百倍も面白い楽器に変えてくれる、馬鹿の一つ覚えです。

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CDプレーヤーとMP3プレーヤー。この純正ヘッドはSVXの車内の音響特性に合わせたフィックスイコライザーが付いていて、なかなか良い音です。デザインもインパネの形状と合わせてあるので、悪くないんですよね。カセットデッキというのが当時を醸し出すアイテムですね。まだMDが普及する前です。

バージョンLにはCDチェンジャーが搭載されていました。12連奏で、500マイルを一気に駆け抜ける仕様です。バージョンEの場合は1枚掛けのプレーヤーがディーラーオプションでしたが、これもSVX純正とデザインを統一したもの。シングルCDもアダプタなしで再生できます。

時代が時代なだけに古さはあるのですが、むしろオーディオは古いものも評価されるマニアの世界。デジタルソース全盛のご時世にあって、このアナログデバイスはいい雰囲気を今も保っているように思います。

愛用のMP3プレーヤーに代わり、新しくSDメモリ対応のものにしました。USBも使えますが、あのサイズの出っ張りが美観を損ねるんですよね。SDなら余計な出っ張りが最小限。しかもUSBにも対応し、これはスマホの充電に重宝しますね。16GのSDメモリにMP3を大量コピー。12連奏を遥かに越える曲数です(笑) 選曲がフォルダ飛ばしなので、この辺の利便性だけは仕方ないですけどね。

内装は残すところ、ウインドウフィルムくらいです。これも正直迷っています。リアには貼りたいけど、リアサイドに貼ると運転席とくっきり分かれるキャノピーにデザイン的な違和感を感じます。後席周囲に貼る理由も強いて感じられないので、リア窓だけで済ませるかも。

スケートや自転車、一人登山の勇気付けに活躍するのが、モバイルプレーヤー。フィギュアスケートに音楽は必須要素で、これがないとコンパルになっちゃいます。自転車では公道での使用に制限があるものの、土手道など自動車の走らない安全な道では重宝します。一人登山では、孤独を紛らすために音楽がいいですね。もちろん、状況にもよりますが。

で、プレーヤーについてはこれがなかなか難しいんですね。オールインワンでいいならスマホ一つで事足りますけど、スケートなど激しい運動ではこれが大きすぎ。今までは、USBメモリタイプのウォークマンを愛用していました。これがなかなかよかったんですけどね。スマホ依存もここまで来ると、やっぱりスケートでも使いたい。で、色々考えていました。

そして先日、突然目の前に現れた製品。30分ほど吟味して即、衝動買い。これは待ちに待った製品でした。

http://www.bose.co.jp/jp_jp?url=/consumer_audio/headphones/sport_headphones/sie2i/sie2i.jsp

BOSEのスポーツヘッドフォン。画期的なのは、付属のReebock製アームポーチ。このアイデア、ついにスマホの活路が見えました。目の前の霧が晴れて一気に想像の視界が開けた瞬間でした。

しかし買って実際にスマホを入れてみると。入りにくい(TT) しかもジャック穴がずれています。iPhone用だから仕方ないですが。何とか穴を開けてスマホのカバーを外して、装着成功。うん、悪くない。
でも出し入れに毎回苦労するし、入れたまま操作できるはずもなく。アイデアにお金を払ったと思って満足し、ポーチは大事に保存することとしました。

そうアイデア。アームポーチならいける、という感触を得て、スポーツ用品店へ。ぐりーんうぉーくのSportsDEPO。アームポーチはジョギング/ランニングのコーナーにあります。しかしこれも結局、iPhoneに準じたものばかり。残念、と思いつつ、同列にあったウエストベルトに視線が。そうか考え方は同じ。もしかしたら腕に付けるより腰の方が自然? アームポーチとウエストベルトで軽くスピンして結論。腕より腰! 最もシンプルな、ゴムベルトのウエストポーチで決定しました。

ここに至って、スマホが完全にスケートでも一体となりましたね。登山では既に必需品。GPSロガー&マッパー&カメラ&メモ帳&非常ライト&コンパス等々。残念ながらやわらか銀行は、山での通信は絶望的ですが、それ以外の機能で大活躍。バッテリー温存のため基本電波オフ。
他、自転車でも同様の機能で使えます。自転車で走る地域は基本的に電話が機能します。上記の機能に+電話な感じ。

GPSを使う場合、なるべく高い位置に装着するのが望ましいのですが、その為ザックのショルダーベルトに付けるモバイルポーチを使っています。これがとても便利。ザックを下ろさなくても出し入れできます。登山では電車移動が多く、モバイルSuicaでも楽々。乗り換え案内の確認も即座にできます。

スケートではGPSを使いませんから、高い位置である必要性はありません。リンクは基本的に寒いので、電話のバッテリーのためにも体から離さず冷やさない方がいいですから、ウエストポーチは理想に近かったですね。ついでに小銭やロッカーキーなども入れておけます。スケートは荷物を持ったまま滑れませんから。

話が逸れましたが、このスポーツヘッドフォン。素晴らしいですね。さすがBose。快適な装着感で、着けていることを忘れてしまいそうな。自転車で飛ばしても、風切り音はほとんどしません。密閉型ではないので外部の音も聞こえます。これはスポーツや自然の中での使用では、望ましいですね。逆に電車内では音漏れの可能性があるでしょうか。肝心の音質は、低音から高音域まで本当にワイドですね。まるで密閉型のようなレンジ。Boseらしいパワフルさと解像度、何だかインナーイヤーとは思えないような。衝動買いにしては高い買い物でしたが、これは良い買い物でしたよ。

 フィギュアスケートで、絶対滑ってみたい曲でもあり、多分私の棺に入れてもらうCDの一枚です。ご紹介しましょう。
 
 
 クラシックギターのジョン・ウィリアムスによる逸品。曲は、リチャード・ハーヴェイ作曲の「古風な協奏曲~ギターと小管弦楽のための~」と、スティーヴ・グレイ作曲の「ギター協奏曲」。それぞれ1995年、1989年の録音ですが、秀逸な録音もさることながら、その演奏技巧、曲、とにかくすばらしいです。ジョンのギター協奏曲は山ほどありますが、この書き下ろし作品は数あるギター協奏曲の中でも、至高のものではないかと、個人的には評価しています。親しみやすい曲調は誰にでも、耳に優しく、時には力強く、ギターの織り成す美しい世界に誘ってくれます。
 
 今回はRハーヴェイの古風な協奏曲について語ります。
 
 このCDを手にしたのは、彼是12年前。ギタリスト、ジョン・ウィリアムスは良く知っていて、このアルバムを手にした時から「きっと深い感動を齎すだろう」という絶対的な予測があって、裏切ることはありませんでした。書き下ろし作品であれば、ジョンの持つテクニックの全てが盛り込まれているだろう事も間違いないですし、書き下ろしという意欲的な姿勢からも熱意は受け取れます。間違いのない選択です。無条件で購入しました。
 
 まず、ギター協奏曲というものを、予め説明しておきましょうか。
 凡そクラシックに於いても、異色の協奏曲といってもいいでしょう。クラシックと呼ばれながらも、オーケストラに含まれない楽器のギター(クラシックギター)。実は、管弦楽との共演が可能なのかという、大問題があるのです。そもそも今の大規模なオーケストラであれば、グランドピアノでなければそれにつりあう音量が出ません。ハープにしても同様ですが、こうした小音量の楽器の場合、そのスタイルは古典的な形式をとります。つまり、大規模なオーケストラでなく、ギリギリの小編成でオーケストラを編成するのです。それでも尚、ギターは音量が小さく、作曲者のみならず演奏者一人一人にも、高度な技術が求められます。可能な限り、小音量でフォルテッシシモを演奏すると言う難題です。さらに、ピアニッシシモを最小音量で正確に奏でる技術も必要です。バイオリンであれば、ミュートが使われるかも知れません。管楽器に至っては、全てがソロ。これも、正確な独奏が出来るレベルでないと勤まりません。しかも、これらも小音量を求められます。
 
 そんな難しい管弦楽を前に、ギターは豪華なバックに負けない音量と正確さを求められます。小さな音も、管弦楽に負けては台無しです。さらに、録音技術も高度です。ギターの音が埋もれないように、また音量を上げすぎてフレットノイズを拾わないようにすることも必要ですし、また打楽器の深いレンジをも回避しなければなりません。とにかく高度な録音で、ミキサーの技量も問われます。演奏会場も、程よいリバーブのかかる広い部屋が必要で、マイクとの距離をうまく調節しながら、かつ音の息がぴたりと合うような指揮者の技術も必須。楽器との距離が遠いですから、その指揮も難しいものとなりましょう。
 
 ギターはそれ一本で、あらゆる音を奏でることが出来る、小さなオーケストラとも喩えられます。弦楽器のように太くて硬い音、フルートのように柔らかい音、ホルンのように重く滑らかな音、ピアノのように速い音、どんな音でも出すことが出来ます。それ故に、とても表現豊かな楽器なのですが、最大の弱点は音量が小さいこと。その為、多人数を集める大演奏会には向きません。後世、アンプやエレキ技術の発展が、極めて多彩で大音量も演奏可能な楽器へと進化させましたが、クラシックギターのやわらかい音色と、多彩な表現力を保つには、やっぱり生のクラシックギターには敵いません。技術のある奏者の手にかかると、その音色の世界の広さに圧倒されます。
 
 そんな難しいギター協奏曲ですが、このCDの録音に関してはまさに絶句。伴奏がとにかく音量を抑えようと必死になっているのも良く分かるのですが、それが実に、際どくも繊細な演奏を実現しています。まるで綱渡りでもしながら演奏するような、スリリングな演奏です。小音量だから、ちょっとでも間違えれば粗がすぐに目立ってしまいます。小編成だから、気も抜けません。フォルテであっても決してギターの音色を殺さず、しかし素早く力強い。そしてピアニッシモも何と美しいことか。物凄く綺麗で、繊細で、きらびやかなのに、そこに物凄く張り詰めた空気感があって、譜めくりのわずかなノイズも許されない緊張感の中に、そんな束縛から全てを解放してくれるような、涙が出そうになるほどのやさしい音のハーモニー。まるで母の手に抱かれる子供のように、聴き入ってしまいます。圧巻は、第3楽章「Cantilena」。リチャード本人の解説にはこうあります。
 
 Cantilena―――紗のヴェールのかげで踊られているバレエにも似て、夢みるように抒情的なひとこまである。木管、弦の流れるように歌うソロが、この最も長い楽章に、カンティレーナ(抒情的旋律)の性格を与えている。
 
 すばらしい演奏、すばらしい録音、すばらしいCDです。SBM録音ながら、現在は絶版になっているかと思われます。SACDでの再販を強く希望する名盤です。
 またこのCDは、オーディオの性能も問われます。ギターの演奏に向く小編成のシステムでは管弦楽が厳しいですし、大掛かりなシステムですとギターの繊細な音がどうなるか、という難しいソースでもあります。もちろん普通のミニコンポでも楽しめる高度な録音がされてますが、できればフルコンポで、ギターの音をホンモノのギターの音と同じくらいの音量にして楽しむと、全ての楽器の配置や奥行き、その際どい音量と高度な技術も楽しめます。そこまでリアルな録音です。
 今回はヘッドホン。SONYがまだオーディオに命を懸けていた時代の品です。
 
 MDR-CD1700。当時私はスタジオでベースをかき鳴らしていた時代。ヘッドホンは単価が安いだけに、ちょっとした投資で超高級なハイクオリティサウンドを味わえる、便利なマストアイテム。スタジオモニタとしても、リスニングにも使える、密閉型のヘッドホンを欲していた私は、CD1700以前にもCD1000を愛用していたものの、これはヘッドバンドの根元が折れてしまい昇天。圧倒的なレンジ感とクリアな音像に惚れ込んで、二代目となる高額ヘッドホンも躊躇無く購入、もちろんカード(苦笑)。定価で25,000円だったかしら。
 
 レビューだの実際の使用感だのは、ぐぐってもやふってもガンガン出てくる銘器なので、その辺を御参考に。MDR-CD1700とやれば、世界中から絶賛の声。
 バイオセルロースの振動板も当時のSONYのお家芸ですね。ことヘッドホンとツイーターについては、この素材とんでもない素質を持った、究極のマテリアル。高音域に求められる素材の特性は、まず硬いこと。高周波のエネルギーを効率よく、高速で伝達できることが重要です。同時に硬い素材だと内部損失が低く、共振を起こしやすくなります。理想としては、密度が低くある程度の弾性があること。そして、軽い事。軽ければ、振動させる為のエネルギーが少なくて済みます。しかしこれらの要素は互いに相反する要素です。軽い素材は硬さが乏しく、硬い素材は密度が高くて重いのです。一般的なツイーターには、アルミや高価なものだとマグネシウム、チタンなどが用いられます。高音での振動となれば、1秒間に2万回以上も振動する訳で、そのエネルギーを考えると、素材の密度も馬鹿に出来ません。ツイーターはまだ低周波を出さなくて良いのでまだいいですが、ヘッドホンとなると60Hz程度の振動も求められます。
 
 安いヘッドホンならともかく、高級な密閉型となると、その技術はフルレンジのスピーカーに近い技術が求められます。フルレンジスピーカーの場合、振動板には紙とアルミのハイブリッドが良く使われます。どちらも適度な硬さと軽さ、内部損失を持ち合わせています。ヘッドホンでも、かつてはアモルファスダイヤモンドを蒸着させたり、その工夫は歴史を辿ってもなかなか面白いものです。紙が振動板にかなり適した素材だった事は明らかですが、その特性をさらに発展させたものが、バイオセルロースですね。バクテリアによって人工的に作られる繊維。食材として一番近いのは、ナタデココだそうです。高域重視の当時の風潮と相まって、バイオセルロースは画期的な素材でした。
 
 今では、木の振動板なども登場しています。ヘッドホンは鼓膜を直接振動させるシステムといっても過言ではなく、そのチューニングはスピーカーのそれとは全く別次元らしいです。スピーカーは空気というか、室内環境を振動させるシステムですからね。
 
 話は逸れますが、SONYのヘッドホンはそれこそWALKMANと平行する歴史でもあり、私もその時代に応じて各種のヘッドホンを使ってきました。インナーイヤータイプの装着感の悪さから、敢えてヘッドホンのHAIRシリーズを使っていました。MDR-A40Lとか、ルイジ・コラーニデザインのMDR-A60も愛用してましたね。DISCMAN時代はインナーイヤーに逆戻りして、MDR-E484でした。車に乗るようになって、ポータブルオーディオとは完全に決別しながらも、カセットテープ時代の最後の世代となるWALKMAN、WM-WE7はその画期的なデザインに惚れて即決購入。画像貼っちゃお。
 かっこいいなあ。アンテナが付いたワイヤレスタイプで、耳元で基本操作が出来ちゃう優れもの。1997年の発売。ヘリカルのアンテナがものすごくオタクライクで、どこかのアニメにそのまま出てきそうなグッドデザインぶり。街中で付け歩くには、かなり勇気がいりますが、その目立ち度は抜群です。秋葉原のホコ天なら違和感ありませんけど。このデザインに惚れて欲しがりながら、結局手にしなかったという人の多いこと多いこと。残念ながら、その時既にカセットの時代は終っていたのですね。
 
 この愛器も私のカセット時代の終焉に伴いお蔵入りで、その後は専らカーオーディオ一辺倒でまたもポータブルから離れますが、その頃にCD1700を購入した記憶があります。WM-WE7は今も健在ですが、経年劣化が激しく、ヘッドホンのウレタンは腐り、ヘリカルアンテナは黄色く変色。バッテリーも恐らく死んでます。ガム型電池は特殊なハーフ形状で入手も難しいです。何より、カセットなんて今更使いませんし、MP3ウォークマンの代わりにはなりませんね。
 
 うーん、このデザインはあまりにも惜しいので、これをそのままソリッドウォークマンに出来ないものでしょうか。改造して作れそうな気もしますが、是非SONYに復刻兼ねて製品化してもらいたいものです。筐体は充分に今のソリッドプレーヤーは納まるでしょう。今のWシリーズが一番近い製品ですけど、このデザインはいまいち。林檎を追いかけているようでダメですね。やっぱりWE7ですよ。
 
 閑話休題。CD1700をポータブルで使う勇気はありませんね…。でも、ベッドに横たわってそのまま朝を迎えられる、もっとも装着感に優れたヘッドホンでもあります。勿論音質はこの上なく、オーケストラなら楽器の位置まで明確に浮き上がる立体音像です。つくづくSONYはいい仕事してましたね。
 たまには音楽の話題。
 
 ショスタコーヴィチといえば、かのソ連で高名な作曲家。死後発見された日記によると、それでも政府の圧力との葛藤があったり、自身の創作と要求とのギャップに悩んだり、それはもうクリエイターならではの、想像を絶する苦悩があったようで。とはいえ、かの共産国で名声を堅固なものに出来た事は幸運です。プロコフィエフなども同様でしょうか。政治的に利用される事は、自身の創作活動を継続する為には必然であったでしょう。それと上手く迎合しながらも、プロパガンダの手先に陥ることなく、しかも巧みに自己の葛藤を表現したというのは、何かと精神に支障を来たしやすいクリエイターにとっては、まさに奇跡であります。ともすれば、共産圏の没落とともに、忘れ去られる人であったかも知れません。彼自身の社会主義への迎合が本意かどうかは知る由もありませんが、彼の曲を聞いて社会主義万歳などとのたまう輩こそ、洗脳という言葉でご自身を疑った方が良いでしょう。ショスタコーヴィチの作風こそ社会主義リアリズムの象徴的な作風ではありますが、芸術に主義を持ち込んで優劣をつけることそのものが愚行。主義を超越するから、芸術なのです。だから、流行のモチーフや当世の世相に流されながらも、後世に至っても高い評価を維持できるものであります。
 
 記録メディアの進化は、これまで記憶に残ることのなかった「演奏家」の名声を、後世にも伝える事が出来るという点で、画期的です。例えば、モーツァルトの友人には多数の名演奏家がいます。ロイドゲプとか、シュタッドラーとか。彼らも歴史に名を残していますが、残念ながらその名演を再現する事は出来ません。モーツァルトと比較してしまえば、当時は恐らく圧倒的に後者の方が高収入だったでしょう。ところが、時代が変われば、残るのは「紙媒体」のみ。楽譜こそ人類の遺産となり、演奏そのものは記録されること無く、消えてしまいました。
 現代は、特にCDが世に現れてから、劣化の極めて少ない名演奏が、いつでも自由に再生出来ます。既に他界したカラヤンやバーンスタインの膨大なライブラリは、かのモーツァルトの名声に並ぶかも知れません。何故なら、モーツァルトの曲を再生する時、今尚その多くは彼らの手によるものだからです。シュタッドラーの名は歴史でしか垣間見る事は出来ませんけど、カラヤンの名はライブラリと共に、これからもあり続けます。
 
 民主主義的に評価するなら、芸術ほどわかりやすいものもないでしょう。300年の時間を経ても尚、人々に評価されることの凄さ。一体、延べ人数でどれ程の人間が評価してきたのか。バッハの時代、音楽がまだ最高級品で庶民の手に届かないものだったにしても、それを評価し世に広めた後の音楽家の功績で、膨大な支持を得ます。芸術はまた、伝承されるものでもあります。それにより、時間を超越します。まあ芸術に限りませんが、伝統とはやはり、物凄いものです。
 
 ビシュコフのショスタコーヴィチ第5番。地鳴りのような大太鼓のコーダにさえ、哀愁を感じる名演です。

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 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
「事実は小説より希なり」
 架空の人物の閉じた世界のありえない話なんかより、何百倍も面白いリアル体験。そんな人生を目標に、意味不明な挑戦と挫折を繰り返しています。

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