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Archive for the ‘SRS’ Category

術後の最後の配管、尿カテーテルの除去。浮腫があったことから日数をヌツ程遅らせての除去でした。

手順はまず膀胱の異常の有無を確認するために、管をゴムで縛り尿を止めます。尿は管を流れず膀胱に溜まっていきます。尿意を感じたらゴムを解き排出。その量を計って膀胱に異常がないかを確かめます。通常は300~500ml程度。

たっぷり水分を補給しながら様子を見ます。最初の一時間で1Lのミネラルウォーターを飲み干しました。程無く一度目の尿意。量は600mlでした。続けて順調に700ml、2時間経たない内に3回目で800mlとなりました。ここで膀胱異常なしとなり、ついにカテーテル除去。

4度目の尿意でトイへ。バルーンを縮めてするりとカテーテルは抜けました。ここで初めての放尿(笑) 感覚の違いに笑いが止まりません。素直に嬉しかったです。これでようやく全ての管が外され、自由の身となりました。

この先は、ダイレーションの日々。

手術も無事に済み、日毎に回復しています。ドレーン・点滴・パッキングの順に外れて、ようやく自立でシャワーが浴びられるように。ここまでは、痛みよりも、浮腫との戦いでした。

手術直後から患部がパンパンに浮腫んでしまい、見るもおぞましき状態でしたが、鼠径部をマッサージし、足をなるべく動かす事で徐々に回復。出血も多少ありましたが大事には至らず。輸血はせず人工の代用血漿剤で乗りきりました。

悩ましいのは排便。坐位もままなりませんから差し込み便器(所謂おまる)を使わなければなりません。恥は既に通り越しているのですが苦痛ですね。なので、食事をなるべく汁物にしていました。

結果としては順調な回復。ほぼ予定通りの日数でここまで来ました。残す尿カテーテルだけはトイレトレーニングがあり、最後の山場です。

さて術後の感覚など。

コロナ禍で患者が全くいなかった時期に、ガモン病院では術式のアップデートがされたと一部で噂されています。外見の審美性が明らかに向上したという話です。それに関連するかわかりませんが、相当の激痛を想定していたのに、今のところ苦痛を感じるレベルではありません。鎮痛剤を服用しているものの、軽い違和感程度に押さえられています。これは本当に幸いでしたが、個人差が大きく出る部分です。

気になる膣の深さは? ガモン先生の初診で13cmと告げられました。10cmもあれば充分と思っていたので、ラッキーとしか言い様がありません。睾丸摘出していなかった事もあるでしょう。以前スポーンクリニックも検討していたというのもあります。何れにしても嬉しいです。

手術当日は三名のオペが予定されていて、私の順番は結局最後でした。リカバリまで考えると、これもよかったかもしれません。

感覚ですが、鬼頭の神経が残されていて、それが陰核部分に納められています。機能的にも本来の女性と同じ作りになっています。しかし術後の感覚としては、陰茎の先端部分がまだ残っていて、それが頭で思う位置にないような、そんな変な感覚です。海綿体のほとんどを切除していますから、形状は全く違うものになっているのに、一番敏感だった部分がその存在を普通にアピールしているような。これも時間と共に慣れるのかもしれません。

尿の感覚は、また後日。

12/1の18:00頃からオペとなりました。全身麻酔なので勿論何の記憶もございませんが。

開始前に執刀医ガモン先生とお会いでき、一緒に写真を撮りました。スタッフの皆さんも和やかで、安心して臨めました。

気が付くとリカバリールーム。布団乾燥機のようなブロワーがベッドに設けられ、暖かかったです。スタッフにWhat time? と聞くとMed nightと。Painと伝えたら、痛み止めを点滴から注入してくれました。そのまままた、眠りにつきます。

続いて目が冷めたのは3時くらいでしょうか。5時に病室に戻ると告げられ、ベッドに乗せられたまま戻りました。また軽い眠りに。

7時を回る前に朝食が運ばれてきました。頼んでおいたわかめスープ。

この段階では出血と浮腫が凄く、ガモン先生に診てもらうことに。ガモン先生曰く「大丈夫」。浮腫が退くよう水分を多めに摂り、軽く足を動かして血流やリンパの流れを促しました。

繋がれた管が取れるまでは、ベッドから身動きも出来ません。排泄もままなりませんから、食事は全て汁物にしました。

明日か明後日か、まだ病床に横臥する日々が続きます。

本当に色々ありました。まだ何かありそうですが。前日にしてようやくPCRの検査結果。勿論陰性。このPCRが出来ない事で涙を飲んだあの日は忘れません。

職場も家族も、何とか承諾を得ました。難しいものですね。帰ってからもまだあるかもです。

まあ、無事に帰れるよう祈るばかり。

改めて。いえ、前回の投稿から随分経っているのに?と思われた方は多いでしょうか。実は、タイへの渡航はPCR検査が出来なかったことにより、搭乗拒否されてしまいました。そして今ようやく渡航に漕ぎ着けたという訳です。

彼此半年以上が経過してしまいましたが、その間に緊急事態宣言があり、仕事も休業を余儀なくされてしまいました。第一波、第二波と過ぎる中でようやく渡航可能の兆しが見えてきたのが、9月。タイ政府による特別便の運行が発表され、VISAの取得や入国許可証など大変な手間を要するものの、俄に渡航者の話がTwitterで散見されるようになりました。特別便への搭乗の条件として、観光などは当然認められません。ビジネスや教育関連、政府関連などと連なる中に「医療目的」というものがありました。

SRS(性別適合手術)はタイが世界でもトップレベルの技術と症例数を誇るもので、一大産業でもあります。これを無視できないのは当然ともいえます。

今回の渡航で用意した書類は、驚くほどの数になります。順に挙げていくと、VISA申請には特別便のチケット・日本の病院の英文診断書(押印必須)・タイの病院の診断書と予約紹介状・治療費に見合う銀行残高証明書・日本の身元保証人のサイン入り身分証明書コピーと申請書・パスポートのコピー・AHQ(タイ保健省認定の隔離病院の予約証明)・そしてエントリーシート。VISAの次は入国許可証(COE)で、これもエアチケットにパスポートとVISAのコピー・英文の誓約書・英文診断書・AHQ・COVID-19対応と明記された旅行保険・銀行残高証明といった具合。COEが発行されたら、今度は渡航前72時間以内にPCR検査と英文の陰性証明と合わせて健康証明書を得て、これで渡航当日を迎えます。

まだ今日の段階では、PCRを受けていません。新型コロナに感染しているということはまずないでしょうけど、健康管理は徹底しなければなりません。

この日の特別便でガモン病院に向かう日本人は、私を含めて6名とのこと。まさかの団体様になってしまったようですね。恐らく、年内に済ませたいという気持ちは私と一緒なのでしょう。仲良くできたらいいですね。

さて、戒厳令下の渡航で、現地病院でも14日間の隔離が求められています。入院期間はともかく退院後も外出はできません。残りの1週間で軽く外出できれば? 勿論観光が目的ではありませんし、病院近くのイオンモールに足を運んで何か食事でも…その程度です。退院後は体を少しでも動かした方が回復が早いですから、そうできればいいですね。

今回の渡航で最も心配していることは、自分なんかじゃないですね。日本に残す家族。コロナ禍という現状でもあるし、高齢の母はやはり心配です。何より、今回の手術の件は伝えていません。仕事で渡航すると伝えました。仕事と言っても反対する母親です。本当の事など言えません。相方に家の事は頼んで出掛けますが、その相方もコロナ禍で仕事は減っているし、どうなることやら、です。

とは言うものの、私も既に48歳。SRSをする最後のチャンスと思っています。49歳は縁起が悪いですし、50になってするのもどうかと。女性なら閉経する歳で、立派な更年期。私もいつまでも若くはありませんが、後悔して生きたくはないじゃありませんか。今を前向きに生きるために。

積年の願いが叶う、タイ渡航。期待は勿論ありますが、今は不安の方が多大です。
海外旅行は過去に3回経験があり、片言ですが英語も何とかなるので不安はありません。エアホテルの予約から、病院の手続きまで、何とか漕ぎ着けました。ガモンホスピタルは性別適合手術では有名で、日本人の利用者も多数。実績はトップクラスですから、信頼しています。幸い、クリニックには日本人のスタッフがいらっしゃり、お忙しいでしょうけど安心感もあります。まあ、そういう意味では大丈夫でしょう。

この手術の最大の問題は、ダウンタイム。
回復までに相当の苦痛と労力を伴います。本来ないはずの穴を開け、あるものを切除する訳ですから、それ相当でしょう。それでも、望む人にとっては何にも替え難い意味があるとか。私も少なからず希望を持って臨みます。失うものもありますが、得るものの方が大きく価値があるなら。

ここに至るまでに経てきた道のりは、途方もないものでした。

まず社会的には、フリーランスで女性として働ける環境を20年前から地道に構築してきました。その上で、女装を認めてくれる伴侶(以下相方)を得ることも重要でした。最低限の社会性は大前提でした。恋愛対象が女性の自分としても、優先順位は自分でなく家族でしたし、苦痛や環境をさておいても守るべきものを最優先としました。

結果としては、独立~結婚~周知~同意のプロセスに10年以上を費やしました。気が付けば40代。それでも自分の望みは確固として変わらず、精神科医の診断をもって相方を納得させました。相方は私を理解してはいませんが、今も昔と変わらず私の一番大切な人です。

RLEは10年のキャリア。仕事も20年を超えています。相方とは12年を共にしました。この期に及んでSRSというのもまた我ながら驚きですが、経緯と将来を考えれば、遅くも早くもないタイミングだったかとも思います。

改名手続きも順調ではありませんでした。何せ駆け足での精神科通院で、特に実績の少なさが問題となりました。厳しい裁判官だったとも思います。事が大きく進展したのは、健康保険の通称名使用でした。裁判所の改名手続きの前に、精神科医の診断書が真っ先に通用するお役所で、保険証の記述に関しては政府からの通達があります。裏面に戸籍上の氏名と性別を明記すれば、表書きを通称名とすることが認められています(性別欄は「裏面に記載」と手書きしてくれます)。手続きとしては実際の使用の証明を求められますが、これは電気料金などの公共料金の請求書などが通用します。こちらも、すぐに手続きができるものです。
健康保険証の記述により、行政が認めていると証明されると同時に、医療関係の事務処理が全て通称名となり、揺るぎない使用履歴の蓄積となるのです。性別違和が理由の改名では、この健康保険から進めるのがスムーズだろうと思います。
まとめると、まず電気代電話代等の公共料金から改名、精神科医の改名診断書、それをもって健康保険の通称名化、そしてその他諸々の使用実績を添えて裁判所です。年賀状やメール程度では証拠としては不十分です。

とはいえ私の場合証拠になるものが少なかったのは確かですが、使用実績としては20歳前後まで遡ります。当時の漫画同人サークルでのペンネームからですから。バンドでもその名を名乗っていましたし、一部の仕事でも通称名としていました。通り名としては、本名よりも使用頻度が高かったですね。

そもそも女装は学生時代から友達にも知れたことでしたし、付き合っていた女性も当然知っていました。

色々と思い返しても、自分自身の性別なんて相対的なものだとは思います。周囲が男性と思っていれば男性だし、女性として扱われれば女性です。それを認めない人がいるなら、そういう事なんでしょう。周囲の誰もが認めてくれれば、その性別。ここに至るまでのプロセスでもあったし、この手術は最後の総仕上げでもあるのかもしれません。一般的には、法的に認められる事をゴールとする方が多いですが、私は婚姻していますので、現在の法律では叶いません。実質的にも手術が最後となるわけです。

精神科医の診断の中で、自分史を書くという手順がありました。
生まれた時まで遡り、自分自身を見つめ直すものです。保育園時代の幼少の記憶まで掘り下げました。小学生時代、中学高校、社会人となって、女性性を持った自分自身に一連の繋がりがあると客観視できました。私自身は、男性としては苦痛を感じたというより、控え目にはうまくやってきました。女性が恋愛対象だった事も、自分自身の性別違和を曇らせる原因でした。「女性が好きなのだから、私が女だとは思わない」でも、私自身の女性性を否定するものなどどこにもなかったのです。だから女装を辞めることはできず、ついには仕事や家庭環境まで整えて、24時間フルタイムで過ごすに至るわけです。

今は何ら問題なく、とまでは言わないものの、概ね女性として生活しています。無理なのは公共浴場くらいでしょうか。心も体も偽りなく、は不可能としても、何ら疑う要素のない体というのは、特別な意味を持つものと思っています。

私は女なんです。

そう言えるかどうか。


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 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
「事実は小説より希なり」
 架空の人物の閉じた世界のありえない話なんかより、何百倍も面白いリアル体験。そんな人生を目標に、意味不明な挑戦と挫折を繰り返しています。

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