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マイルーツですよ

Posted on: 2008年10月7日

 先祖累代とは法事の度に良く聴く文句ですが、さて累代と考えて…誰やねん(笑)
 
 …というのは恥を通り越して、ご先祖様に失礼だろ! いうのが、さかのぼる事20年以上前、祖母を失った折でした。では、ご先祖様って誰やねん! いざ改めて、葵竜居士のご先祖様を紐解く、歴史の大旅行へとご案内致しましょうヽ(^。^)ノ え?興味ない? でしょうね…、ってまあ、そう硬いこといわんといてヽ(^。^)ノ
 
 父は北茨城の出身。茨城県東茨城郡城里町と、ググると出てきます。そこに、大字で上圷と下圷という地名が現れます。そこがどうやら、本家のルーツ。我が家は上手のほうです。まあ、こんな苗字ですから、系図も一発で紐解けます。むしろ家紋なんかは怪しいです。そこで、日本の苗字7000傑なるサイトで検索。ここが凄い。ここで上圷を調べると出る出るw ものの見事に、我が家の家系図と一致しました。下から辿ると面倒なので、上から辿ります。
 
 まず、姓氏類別大観から。ここの桓武平氏が姓を掌る大元です。ここに、繁盛流とあります。この流派に属します。ここの維幹が、常陸大掾氏の始祖です。続いて、繁幹の次男、清幹が吉田氏を興し、盛幹の次男家幹が石川氏を興します。この石川の四男坊・国幹が、上圷へと繋がります。繁幹の長男家からは、新撰組に殺された有名な水戸藩士「芹沢鴨」の芹沢家があります。圷の字は、芥などと合一する地名で、芥川龍之介の一族も同郷です。塚原卜伝の塚原も同じルーツの鹿島氏系らしいです。何れも遠い親戚らしいです。でもまあ、祖父の代で東京くんだりに飛び出してきた手前、我がルーツとは現在全く縁がありません。祖父は死に際に、その生誕の地で果てましたが、骨だけ送られてきましたから、恐らく大した威光も縁もないでしょう。あるのは、ただ今生きるルーツを保つ遺伝子と、それを受け継ぐ誇りのみです。
 
 祖先は、刀鍛治だったと訊いておりますが、出生から明らかなように、名門には違いありません。どこまで武士だったのか。どこから刀鍛治だったのか、知る由もありません。刀鍛治といえば、名門の鹿島一族とも近いですから、それは分からないでもありません。明らかなのは、水戸近隣にありながら、芹沢氏がそうだったように、決して有力な武将ではなかったという事です。関東の平家といえども、鎌倉以後は落ちぶれて、後の佐竹氏に追い遣られます。水戸藩といえば徳川です。平家の祟りを恐れたのか、それとも鹿島一帯に何らかの思い入れがあったのか…。
 家紋については二説あり、家の人間からは「環付き五三の桐」と伝えられています。これが、本家筋やその家系図から見ると、環無しとあります。これは祖父の代が滅した今に於いては、大いなる謎となっています。
 
 幼い頃から、聞かされた話があります。「ご先祖様は、後醍醐天皇に付き従えたんだ」と。これを意味するものが正しく理解できるには、10年以上の歳月が必要でした。つまりは、南北朝の騒乱の時代に、苦渋の選択を選んだという事に相違ありません。美談こそ残っても、家を支える名声や領地、その実権さえも失ったということは明白でした。以後、桓武平氏・常陸大掾氏の名前は、歴史から消えます。その後の吉田氏・石川氏から数多くの流派が生まれますが、既に受け継がれるものが、細切れの領地だけだったということも見て取れます。その支族の、苗字の多いこと多いこと……。
 
 ただ、傷つきこそすれ、上圷家の男系遺伝子は紛う方なき、桓武平氏から受け継がれたものです。その土地はもちろん、託された意思もまた、関東平氏の誇りを受け継ぐに値するものです。いにしえの世に、関東で武勲に馳せた長がいました。時の朝廷をも揺るがし、関東に平家ありと、その名を日本に轟かせました。それは正しく名門の誇りですし、私の体に流れる血の、いにしえの記憶に相違ないものなのです。

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 岐神葵のぼうけんのしょ。

 岐神葵のブログらしいです。
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